月: 2020年8月

昭和48年 『団結』列車 No.4 運んだ、石炭を人を

昭和48年 『団結』列車 No.4

発展する町 南部  【飯田雅人】  この場所は南部若美町の住宅群の前を走っている列車。昭和48年は,大夕張の閉山の年ですが,南部は,昭和45年出炭以来,新しい住宅もでき町としても発展していった時期でした。  昭和46年ころ,南部に引っ越した友人の家に遊びに行った時に,大夕張では,新築の住宅というもの…
1997年(平成9年)お盆の大夕張|飯田雅人 訪問記

1997年(平成9年)お盆の大夕張|飯田雅人

 今日,8月13日、大夕張へ行ってきました。  やっぱりお盆ということで、大勢の方々が大夕張に来ていました。結構、町中が人の動きでにぎやかでした。例によって、マスコミのカメラも来ていて、歩道橋の上から町の様子を撮影していました。  里帰りや私と同じように故郷を訪ね、今のうちに、目に焼き付けておこうと…
紅夕張嶽 2丁目3番地

紅夕張嶽

   2017年の1月に長谷川潤一さんがおくってくれた夕張岳の写真。  西日を受けて赤く輝く夕張岳の山々。遠い昔の人は、夕張岳に恐れと畏怖の感情を抱いたということも頷ける神秘的で神聖な姿に見えます。  自分が今住んでいるところは、札幌市でも山に近い方で、手稲山の麓に住んでいます。大夕張から祖父の家に…
シューパロ旅情 大夕張色の情景

シューパロ旅情

シューパロ湖岸を走る。  昔は、函渕と呼ばれた深い谷。    満々と水をたたえている。   深い谷をわたり トンネルを抜けると         もうすぐ、新しい景色が広がる…
思い出ばなし ソリと竹スケート|成田利夫 思い出ばなし

思い出ばなし ソリと竹スケート|成田利夫

 竹スケートは、良く滑っていましたよ。  値段は忘れましたが、とても安く売っていたと思います。かばんに入れて学校帰りに滑って帰ったものです。  ある日、馬ソリほど大きくはなかったですが、大きなソリで、3人で坂道を滑って、そのまま、すごいスピードがついて、カーブでひっくり返りました。  その時、私がソ…
1964年(昭和39年) 昭和

1964年(昭和39年)

2月 14日、札幌線(鹿の谷~札幌三菱車庫60.9㎞)免許申請  22日,鹿島児童会館できる。(栄町3丁目)職員1,遊具施設等。3月 31日,市立鹿島高校,道立移管。北海道夕張鹿島高等学校。4月 1日,私立大夕張聖心幼稚園を富士見町(鹿島小横)に設立。s40年度園児320名教職員11名。(園長ジェー…
運転台の親父 運んだ、石炭を人を

運転台の親父

昭和30年頃  No.3 運転台の親父  【小林光志】 親父の若いころ・・多分1955年前後(昭和30年前後)。 このあと まもなく機関庫の管理職になったので 運転台の親父の写真は これしか無い。…
幕の穴から輝いていた星の記憶 2丁目3番地

幕の穴から輝いていた星の記憶

 『資料室-本棚-開校40周年記念誌|鹿島小学校』から、昭和43年に実施された学校行事一覧(鹿島小学校)を眺めていた。昭和43年鹿島小学校では次のような記念行事が行われました。記念誌から書き出してみました。 1記念大運動会6月2日(日)2記念学習発表会9月11日(水)~13日(金)3記念全校マラソン…
大夕張スタンプ 台紙 陳列棚

大夕張スタンプ 台紙

 昭和40年代 大夕張スタンプ加盟店で使われていた 大夕張スタンプの台紙。加盟店の一覧に見られる店舗の名前が、40年代に暮らした皆さんの、当時の生活の中での様々なかかわりを思い起こさせることと思います。  表、氏名欄に『戸主』とあるのが、「この時代にそんな表現があったのか」とちょっと意外な感じがしま…
昭和18年 鹿島国民学校 教職員勤労報国隊 炭鉱とともに

昭和18年 鹿島国民学校 教職員勤労報国隊

三菱大夕張炭鉱 更衣所(進発所)前  戦争の激化とともに、人手不足を補うため、外国人労務者や、昭和17年には京都から挺身隊が入山しました。  鹿島国民学校教職員による報国隊が組織され、日曜動員で、採炭作業に従事しました。。  当時の学校の日常が、戦争中を回想した次の文章にも出ています。 https:…