「痛快ブック」と岳富町商店街の火事|高橋正朝 #3

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 私が鹿島東小学校3年生の春、明石町番外地の自宅の外で、寺田ヒロオのマンガ、「 背番号ゼロ 」を手にとっていた。 表紙に 「 新漫画党 」 と書かれ、黒丸の上から下に稲妻形のマークが入っている。 稲妻形と思ったのは、アルファベットの S の図案化だったのを後に知る。 つまり、「 新漫画党  」 の頭文字の S だったのだ。 小学校3年生だったから、アルファベットということは知っていても、アルファベット文字や発音などは正確には何も知らなかった。

 

 このときは、芳文社発行のマンガ雑誌、「 痛快ブック 」 の付録だったたと思う。 自分で買ったものではない。 誰かに借りたものだったが、今となっては、誰からだったかまったく覚えていない。 「痛快ブック」を見たのも、このときが初めてだったような気がする。

 

 同年のお祭りの日、昼前後、大夕張から明石町に歩いて帰るとき、岳富町にさしかかった。 皆さんご存知のとおり、岳富町は、少し凹地に位置しており、当時、大夕張鉄道のすぐ下、つまり、大夕張から千年町方向への道路の右側に、木造の商店街が軒を連ねていた。 

  

 その商店街のなかで、真ん中より少し千年町寄りの子ども向けの雑貨屋で、セルロイドの仮面、パッチ、ビー玉、オモチャのピストルや刀、花火などが並んでいるなかに、マンガ雑誌を見つけた。 

 

 芳文社の 「 痛快ブック 」である。 

  

 後年知ったことだったが、当時、マンガ雑誌やマンガ本は、東販 や 日販 などの書籍取次店を通さずに、オモチャ屋に直接販売するルートもあったようである。

   

 A6判やB6判のマンガ••••••。 さらに小形判のマンガは、オモチャの付録になったりしたものもあった。

   

 パラパラめくったその「 痛快ブック 」のなかに、寺田ヒロオのマンガがあり、「 緑の巨人 」というマンガにも惹かれ、お祭りの最中だったので小遣いがあり、すぐに買った。 

  

 「 緑の巨人 」は、「 鉄人28号 」を意識したネーミングの連載もののマンガだったが、ストーリーも絵もなかなかよかった。 作者は誰だったか覚えていない。 あちこちの雑誌に描くような売れっ子マンガ家でなかったのは確かだ。

 かなり後になって知ったことだったが、発行元の 芳文社 が設立された当時、加藤謙一 という人物をアドバイザーに迎えていたらしい。

   

 この人物は、太平洋戦争前後、「 大日本雄辯會講談社 」発行の「 少年倶楽部 」の編集長を務めて名編集長と称されていたため、戦争協力者とみなされ、講談社 を罷めざるを得なかったようである。 しかし、後に、GHQ の嵐が去った後、講談社 の顧問に迎えられている。

 

 加藤謙一 は、講談社 を罷めた直後、独力で 学童社 を起こし、マンガ家を目指す少年たちに有名な、「 漫画少年 」を発行するようになった。 ただし、公職追放された身なので、経営者としては、妻名義だったらしい。 本人の身分は編集長ということになったが、実質の経営者である。

   

 「 痛快ブック 」の匂いが、何となく、「 漫画少年 」を連想させたのは、偶然ではなかったようだ。

   

 掲載されていたマンガの執筆者は、寺田ヒロオ、棚下照生、一峰大二、岸本修、前谷惟光、山根あかおに、益子かつみ、保谷よしぞう、植木金矢 がいた。他のマンガ家の名前は覚えていない。 植木金矢 の作品は、絵物語の部類といっていいだろう。

 掲載されていた小説の執筆者については、一切覚えていない。 わずかに、挿絵画家の 石原豪人 の絵だけを覚えている。 この人は、他のマンガ雑誌に掲載されていた小説の挿絵でも、石原裕次郎 そっくりの挿絵を描いていた。

 そのときの「 痛快ブック 」のマンガ執筆者の一人、岸本修 は、横山光輝 のアシスタントも並行していたようである。

 保谷よしぞう は、少女マンガも描き、私が、劇画家のアシスタントをしていた時期には、「 少女フレンド 」のカットを専属に描いていた。

 

 この岳富町の商店街は、その年の初夏に全焼した。 明石町からも、黒い煙が立ちのぼるのが見えた。

   

 明確なことは知らないが、復興したのは翌年のようだった。 モルタル塗りの立派な店が立ち並んだ。   

 ただし、以前と同じ場所の鉄道の土手のすぐ下ではなく、反対側の道路沿いに並んだ。

   

 意外なことに、鹿島中学校で同級生になった大夕張に住んでいた複数の人たちにこの火事について訊いたら、知らなかった人たちが結構いた。

 

 私が小学校3年生のときは、大夕張の炭鉱景気がピークのときだったので、親戚が、千年町、常盤町、明石町などにいない低学年や幼児の生活範囲は、大夕張で完結していたため、無関心なことには記憶から消えてしまったのだろう。

 岳富町の商店街の真ん中あたりにあったのが、加川写真館だった。 加川孝 さんは、鹿島東小学校4〜6年生の3年間、菊組で同級生だった。 彼のイトコの 勇 さんは、鹿島中学校 F 組で同級生だった。

   

 彼らは、どこで、どういうふうな人生を歩んでいるのだろうか•••••• ?  

(2020年9月19日記)

 


(筆者略歴)

昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


1件のコメント

  • 漫画月刊誌、お正月や、春・・・特大号の付録は豪華で、一番の楽しみでした。
    中に小冊子や、双六、カード、紙工作などの付録が満載で、十文字に紐で縛られ、パンパンに膨れ上がった本は、子どもの夢がいっぱいにつまっていました。
    毎月は買えないので、貯めていたお小遣いで買いました。本を買って開くときのそのわくわく感は忘れられないですね。
    _
    岳富町の商店街が火事になったというのは、高橋さんが、小学校3年生、つまり、昭和32年頃だったんですね。

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