月: 2021年3月

大夕張小唄 映像

大夕張小唄

 昭和34年三菱大夕張礦業所選定歌。『炭鉱(ヤマ)に希望の花も咲く』と共にキングレコードよりレコード化。礦業所が地元住民と会社関係者の志気を高めるために製作し、住民に親しまれた。  『大夕張の歌』『大夕張音頭』ともよばれ、お祭りやお盆の時期、大勢の人が、歌い踊ったという。  大夕張ダムで働く開発局の…
食憶(その12 川原の鍋)|長谷川潤一 食憶

食憶(その12 川原の鍋)|長谷川潤一

 息子が楽しみにしていた樽前登山が都合で中止。  かわりに何かしようかということになり、先週、宿泊研修でカマド係りをバッチリやりこなしたという息子の腕前を確かめるため、思い出したのが「炊事遠足」。  炭火の焼き肉でもなく、海の幸ありのバーベQでもなく、もちろんおしゃれなアウトドアでもなくて、米、味噌…
明石町駅 地下歩道 思い出の街角

明石町駅 地下歩道

昭和40年頃 昭和33年11月4日、明石町駅に旅客用地下歩道が完成したという。 昭和35年に明石町の高台に鹿島高校(のちに夕張東高校)が建設された。 大夕張鉄道で通学し、この地下歩道で線路の下をくぐり、再び踏切で線路を渡り、高台にある高校を目指して坂道を登っていった高校生達も数多い。 白黒写真に着色…
子どもの記憶  |菅井宏史 思い出ばなし

子どもの記憶  |菅井宏史

 長谷川さんが大夕張時代の「食憶」をお持ちのように(「食憶」シリーズいつも楽しく拝見してます)人それぞれ大夕張の、あるいは大夕張時代の一連の記憶というものがあるのかもしれません。   昭和30年代後半から、40年代前半が、私の大夕張の記憶の全てなのですが、あの時代の思い出といえば(これは大夕張の記憶…
窓が埋まって よいしょ 楽しかった日々

窓が埋まって よいしょ

 昭和37年ころ  大夕張の15年間、生れてから2回引越しした。  ここは、炭鉱病院の線路を挟んだ向かい側の、富士見町5丁目のあたりだと思う。ここで生れた。  雪が多く降った。昭和13年、7歳で沼の沢から大夕張に引越してきた母などは、「大夕張ダムができてから雪が多くなった。」と、よくいっていた。  …
子供用自転車が普及し始めた頃 | Kawauchi Masami 思い出の記

子供用自転車が普及し始めた頃 | Kawauchi Masami

 子供の頃の 遊びですが10〜15年毎に 調べると 随分 違うと思います。  私は4つ上の兄がいますが、「三輪車」持っていませんでした。  昭和37年ごろ、「子供用自転車」が無かったと思います。  その頃は、お父さん方の「黒いゴッツイ自転車」で、家の母親は自転車に、乗れませんでしたし、他のお母さん達…
ディズニーのドキュメンタリー映画『 白い荒野 』 |  高橋正朝 #30 続・大夕張つれづれ

ディズニーのドキュメンタリー映画『 白い荒野 』 |  高橋正朝 #30

 『続 • 大夕張つれづれ #28』 で、ディズニーのテレビ番組のドキュメンタリー映画のことを書いた。    ディズニーのドキュメンタリー映画として有名なものでは、2つ記憶がある。  ただし、2つとも、映画そのものを見たのか、それとも、映画も見て、且つ、その一部分を取り込んだテレビ番組をも見たものだ…
栄町児童公園 思い出の街角

栄町児童公園

昭和40年頃  正式には、『栄町児童公園』というのだそう。  健保会館、健保会館の庭、といった方がとおりはいいのかもしれない。  写真を見ながら、あの時、家庭から聞こえた夕餉の仕度の音を聞きながら、佇んでいた自分の姿を想像できるだろうか。 白黒写真に着色した画像 写真右、通りから、左の健保会館武徳殿…
栄町アパートから 思い出の街角

栄町アパートから

 昭和30年代。最盛期の町。健保会館武徳殿の庭の様子が、よくわかります。そして、正面には、三菱大夕張幼稚園の玄関のある中央の建物と東西に伸びた立派な園舎全体が写っています。この頃は、この規模の園舎にさえ収容しきれなかったのか、私たちは、2部制の一日交替で幼稚園に通っていました。  奥には、園庭の一部…
八百五十のゲレンデ(2) 楽しかった日々

八百五十のゲレンデ(2)

昭和30年 八百五十のゲレンデで。山の向こうに山、山がつらなる。 八百五十 【飯田雅人】(2021年3月12日)  私が過ごした大夕張に八百五十(はっぴゃくごじゅう)と呼ばれる山があった。  海抜850メートルの山だから八百五十とよばれている、と小さい頃から聞かされていた。  住む人たちには、山スキ…
八百五十のゲレンデ(4) 思い出貼

八百五十のゲレンデ(4)

昭和30年 当時の、身長以上の長いスキー。  お腹に茶色の腹巻きをしめている。バカボンのパパがしていた腹巻きと同じ物。このころ自分は身につけた覚えはない。忘れてしまっただけなのかもしれないけれど。  スキーのブランドマークは当時よく見かけたような気がする。小樽にあったというアジアスキーだっただろうか…
昭和31年冬 神社から 大夕張の全景

昭和31年冬 神社から

昭和31年、このころ、まだ緑町と弥生町には大きな寮らしき建物が見えている。緑町には、緑?荘という寮が保養所のそばに建っていた。鹿島小学校もまだ木造の校舎。 白黒写真に着色して画像処理 大夕張神社から。鹿島小学校グラウンドから緑町・弥生町の住宅が一面びっしりと建ち並ぶ。最盛期の街並。…
食憶(その11 お湯)|長谷川潤一 食憶

食憶(その11 お湯)|長谷川潤一

   冬の味の大元だと思うんですが、湯沸かしのお湯のことなんです。  ほとんどの家では当然石炭ストーブでしたよね、鋳物のフジキ式とか鉄板のやつとかいろいろ。    ひょうたん型やトラックオーバル型、後部にいくと煙突が出るだけの尻すぼみ型、石炭をまとめて投入する山高型、前からジュウノでくべるのとか上部…