大夕張へ向かう3本の道
むかしの道路(昭和2年ころ)
むかし、鹿島まで、3つの道路がありました。
一つは、南部の若葉鉱(今はない)から、山道を通ってきました。
もう一つは、万字炭山からの山道です。
シューパロ川の淵を通る道は、一番新しい道路です。
この道には馬鉄といって、馬のひっぱる鉄道がありました。
(鹿島小学校郷土室掲示板の解説文より)

上の掲示物は、鹿島小学校の郷土室にあったものだ。当時『地域学習』の教材の一つとして教職員が製作した。自分は、この年中学生になっていたので、これを使って勉強した記憶はない、が、あったとしても覚えいるかは、あやしい。
昭和2年ころの大夕張、鉄道もまだない頃、馬が大夕張に資材を運ぶためにシューパロ川にそった道を進み、馬ごと絶壁の崖から転げ落ちたこともあったと、どこかで学習した覚えはある。
山の中の大夕張からは、「山の向こうの夕張と岩見沢に歩いてでることができる」とは、親たちから聞いていた。
が、どこをどう歩けば、どこへ出るのか、さっぱりイメージできなかった。裏山に入っても、やま、やま、山が続く景色しか想像できなかった。山のどんずまりに住んでいるという自覚は子どもなりにあった。
この地図を見ると、南部の北部の山々の間に大夕張を目指した3本の道があったことが、よくわかる。小学生の頃にしっかりと学習して頭に入っていれば、という思いが湧く。
上の地図で、南部と大夕張の間、シューパロ川とパンケモユーパロ川が合流し、『二股』といわれたところ、・・・(かつて大夕張ダムはその合流地点に作られた)の山側に、道が折れ曲がっているところがある。
『ダニ峠』という。(通るとダニがつく)。
南部の市街地から、ダム横の急な斜面を上り、シューパロ湖の湖畔亭のあったあたりに出てくるという。
当時、正木先生が主催していたシューパロ塾の探検会に参加して、登ったことがあった。
翌日、『ふるさと大夕張』の掲示板へ次の様な感想文を書いていた。
大夕張と南部を遮る壁
5月13日、シューパロ塾の『ダニ峠探検会』に参加してきました。
南部と大夕張を遮る標高差140メートルの天然の壁を、一気に登り、降りてくる2時間弱の探検でした。
小1と小6の二人の娘も参加し、特に下の子どもは色々な方に手助けしてもらいながら、「たいへんだったけれど、上ることができてよかった」と、感想をもらしていました。
大変良い経験をさせていただきました。
以前,内川さんも書かれていましたが、尾根伝いに行くと、右手下にはシューパロ湖と残雪の夕張岳、左手下方に南部の街がはっきりと見えていて、以前、ここを歩んだ先人の足跡をいささかなりとも追体験できたような気になりました。
そしてその地形をみると、この峠の突端の僅かに開いた山峡に、巨大なダムをつくることも頷けるのです。
また,人の手で巨大な壁をつくり、先人が開いたその道を、永遠に閉ざしてしまう歴史の皮肉にどうしても思いを巡らせてしまうのでした。
この探検会では、シューパロ湖側にはおりずに、『若葉鉱』、『六尺』の跡地に歩を進め、そちらも興味深いものがあった。
炭砿の物らしき遺構や、人があるいたであろう道らしき坂の跡、日用品の発見などがあった。
(北部)大夕張の時代よりももっと前の痕跡を南部の街が留めていたことを初めて実感した驚きは、今でも忘れられない。
貴重な体験を得ることができたのは幸運だった。
もう二十年以上も前のことである。時間の流れの中で、今も笹と下草に覆われ静かに眠っていることだろう。