汽車通学|高橋正朝 #46

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例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。   

  

昭和47年 国土地理院 空中写真

三菱(鉱)バス 山内線 路線図(路線・停留所名)

 上記は、バス路線図だが、大夕張方面から鹿島中学校へ行く経路と、東高校( 鹿島高校 )へ行く経路を比較するのに便利なので、以下の文章のために、コピペしました。   

 鹿島東小学校に入学した最初の2ヶ月間ぐらいは、汽車で明石町から千年町駅まで行き、そこから東小学校まで歩いた。

    

 その後は、明石町から学校まで歩いて往復するようになった。

 私が住んでいた明石町番外地より、さらに遠方の、開拓地区の生徒たちは、最初から、ピカピカの1年生になったときから歩いていた。

   

 考えてみれば、代々木町や炭山あたりから鹿島中学校に通う道程も、雨の日の泥道や雪道を歩くのは大変だったろう。

   

 通学で、面白いと思ったのは、東高校( 鹿島高校 )の生徒の通学の変化である。

 常盤町に住んでいた東高校生は、大抵は徒歩で通学していたが、富士見町や栄町に住んでいた生徒のかなりの人数が、明石町駅まで、汽車で通っていた。

   

 大夕張のほうから鹿島中学校に通学する歩行距離と、東高校ヘの歩行距離は、ほとんど同じだったのではなかろうか ••••••。 にもかかわらず、東高には汽車通学していた生徒が一般的だったようだ。

   

 時刻は正確に覚えていないが、朝、7時15分ごろ、大夕張方面から来た汽車が明石町駅に到着する。

 汽車から、東高校生が賑やかに出てくる。   

 その汽車に、明石町に住んでいた、南高や夕工高の生徒が乗り込んだ。

   

 当時の南高は、普通科と商業科があった。 したがって、大夕張地区から南高に行く生徒は、全員、商業科だったと思う。

 工業高校は、夕張市内では1校だけで鹿ノ谷にあったから、我々は、大夕張鉄道で清水沢駅で乗り換え、夕鉄のディーゼル列車で、鹿ノ谷駅まで行った。

  

 私が、大夕張鉄道の汽車に乗り込む客車は、先頭車両で、その車両は、帰りのときは、最後尾となる。

 

 夕鉄のディーゼル列車に乗り込む客車の位置は、特に決めてはいなかった。

    

 他に、家政学校に行く人がいた。

 女子校のようだったが、汽車の中で偶然見かけたときは、いつも1人で、偶に、2人連れのときがあった。

 汽車に乗るときの客車は決まってなかったようで、大夕張のどのあたりに住んでいたのか、それとも、南部あたりに住んでいたのか、全くわからない。 その2人は、大人びて見えたので、2つぐらい年上だろうと思っていた。

  

 清水沢のどのあたりにあったのか知らないが、少数だが、大夕張地区から職業訓練所に通っていた人たちもいた。

   

 とにかく、朝の7時ごろと、夕方の5時ごろの大夕張鉄道の乗客は、社会人であるオジさんオバさんより、高校生が圧倒的に多かった。 団塊の世代だもんなぁ ••••••。 


 (筆者略歴)

 昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


2件のコメント

  • 清水沢からは国鉄夕張線ですね。
    鹿ノ谷から栗山・野幌に向かう夕鉄と同じく気動車ですが、線区は全く異なります。

  • あらためて、通学の動線で考えてみるのも面白いですね。そういえば、中学校の通学路に沿って自分はほとんど街を覚えていたような気がする。時々、経路を変えてはいたが、当然記憶の濃淡は通った数の差だ。そこに友達の住んでいた家の周辺の景色が、その中に入り込んでいる。
    _ 
    小学校の頃は、通学路はあまり、覚えていない。自分は富士見町だったので、富士見町の中を横断する形で小学校に通っていた。
    行動範囲は狭かったかもしれないが、その分、より濃密に、自然の中で、親や近所の人たち、友達と関わっていたような気がする。

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