月: 2021年7月

鹿島小学校解体ときいて | 小林秀範 随想

鹿島小学校解体ときいて | 小林秀範

解体工事 標識 期間(平成11年11月1日~12月15日)  鹿島小学校が取り壊されるとの事、  本当に本当に・・・・・さびしいです。  今月ですか?  昨年、私は、親友2名とグランドでキャンプをしました、  今年も、と思っていたのですが、なかなか予定がつかずにいます。  親友は、田森睦夫、遠藤直樹…
鹿島高(東高)と前岳 学び舎の思い出

鹿島高(東高)と前岳

前岳を背にした鹿島高校(昭和40年1月に夕張東高校と校名変更) 白黒写真に着色した画像 前岳を背に 誇り!前岳の姿【藤田育雄】  このアングルは大自然に育った大夕張の住民の誇る前岳の姿です。  私も関東に来まして日本アルプスをくまなく回りましたが、今考えるに、こんな均整の取れた形、姿の山は数少ないの…
私の大夕張 |菅井宏史 随想

私の大夕張 |菅井宏史

昭和33年の富士見町6丁目付近の地図に、赤い線で位置を示したもの。写真は、1997年6月撮影。木と、道の跡が残る。    思わず懐かしさがこみ上げ、『ふるさと大夕張』を見ている内に、色々と当時の思い出が蘇ってきました。    私は、昭和33年に大夕張の常盤町で生まれ、4歳か5歳の時に(昭和37年か3…
下夕張(旭ヶ丘)開拓地 思い出の街角

下夕張(旭ヶ丘)開拓地

昭和20年。 家族にとって、写真屋を呼んで何か特別な日だったのだろうか。 男達は直立不動で、家族は全員正装し、ゴザに正座している。 後ろは崖のようになっていて環境の厳しさが感じられる。 白黒写真に着色した画像…
親父のものがたり |Kawauchi Masami 思い出の記

親父のものがたり |Kawauchi Masami

 よくわかりませんが、親父は、いいとこの坊ちゃん、らしいのです。  家は軍馬を育てる大地主で、お祖父様は、沼崎部隊々長でした。大きい家で使用人も沢山居たらしく、お祖父様の名前は、沼崎一男といいます。  結婚していた沼崎一男は、西田さんという 妾を作ります。  なんの縁か、母親は若い時に一人で行ってま…
初音沢 木材工場 思い出の街角

初音沢 木材工場

住宅地が広がっていた礦業所南側。礦業所から奥の北側。 白黒写真に着色した画像 初音沢には木材チップ工場など,木材関係の工場があった。そのうちの一つ。 遠くに礦業所方面が見えているが、やや高台になったそのあたりは初音台といわれていた。 写真奥の建物は、手前、機関庫、奥にコークス場・発電所と見える。 写…
初音沢地区 |目黒則男 随想

初音沢地区 |目黒則男

  我々住民は初音沢と言っていましたが、鹿島地区の人々は官行と言っていたようです。   チップ工場、ボタ山、その麓にあった炭鉱用資材を製造する工場、そのあたりを初音沢と呼んでいました。  私の父が、炭鉱用の資材を製造する会社に勤務していた関係で、現地の社宅に住んでいました。  通学には大変苦労した記…
シューパロ湖畔を行くSL3重連 運んだ、石炭を人を

シューパロ湖畔を行くSL3重連

昭和S46年8月 「鉄道友の会北海道支部」、「北大鉄道研究会」の合同撮影会に合わせて、9600形SLの3重連がおこなわれた。 編成は、「No.3」「No.7」「No.5」+ セキ21両 + 客車ナハフ1 で走ったそうだ。 写真では、3機のSLが噴上げる黒煙がその迫力を伝える。 下のリンクから、走行の…
1978年(昭和53年) 昭和

1978年(昭和53年)

1月 ポンプ車1台、消防南部出張所に配置。 3月 19日,鹿島東小閉校式。  4月 8日,鹿島小・鹿島東小統合式。鹿島東小学校閉校。それに伴い鹿島東小学校奥鹿島分校が鹿島小学校奥鹿島分校と改名。 鹿島小体育館解体開始。 5月 大相撲5月場所をもって,朝登引退。 7月 大夕張ダムかさ上げ可能性調査開始…
炭焼き小屋の前で 思い出の街角

炭焼き小屋の前で

 昭和20年、下夕張(旭ヶ丘)開拓地。    筵を敷き動物の毛皮の上に座り、くわえ煙草。 赤ん坊を抱っこして、蓄音機を並べた写真撮影。撮影は、当時大夕張でただひとつの写真屋だった、加川さん。  写真屋さんがくるというので、珍しかった蓄音機をわざわざ持ち出して一緒に撮ってもらったという。    悠然と…
昭和28年 鹿島小学校 学級写真 学び舎の思い出

昭和28年 鹿島小学校 学級写真

鹿島小学校中庭で写した写真。 昭和17年4月~昭和18年3月生まれの方々と思われる。 この学級が、小学校5年生で、このままの編成で翌昭和29年に卒業を迎えたとすると、担任高橋俊男先生となる。 中央は、石垣貞司校長。   白黒写真に着色した画像…
ポンプ その2 | 高橋正朝 #48 続・大夕張つれづれ

ポンプ その2 | 高橋正朝 #48

 私が鹿島中学校の2年生か3年生のときである。  学校から帰った夕方の4時ごろで、家には私1人だけで、妹弟は遊びに出ていていなかった。        テレビを見ようと思い、スイッチを入れた。  明石町番外地は、テレビ放送の受信状況が悪く、そのときは特に HBC と STV の画面の映りがよくなかった…