炭鉱とともに 婦人たちの行進 昭和30年代、大夕張炭鉱労働組合の主婦会による団体行動。婦人たちに混じり子どもたちの顔も見える。 大夕張礦業所のゲート前に集結するところのようだ。 大夕張炭山駅の屋根のあたりから撮影したと思われる北から街方面を撮影した構図。 冬空の下の組合行動とはいえ、カメラに写る婦人たちの表情に笑顔があり、どこと… 続きを読む
思い出ばなし 昭和30年前後のスキー場|野崎昭雄 私の記憶では、昭和30年代前半まで(1950年代)、富士見町のスキー場は、段々畑がそのままスキー場になっていたような気がします。 ですから、滑り降りると、下手な人は段差で腰をとられ転ぶことがよくありました。 そのような話が、このページで出てこないところをみると、その後、改修されたものでしょ… 続きを読む
思い出の街角 函渕 昭和30年頃。 この場所は、後年、大夕張ダムが作られたところ。 かつて南部から夕張川を遡行すると上流は二股に分かれていて、シューパロ川とパンケモユーパロ川が合流していた。 二つの川の合流地点であることから、二股、と呼ばれた。大夕張ダムの別名も、二股ダムである。 大夕張ダムができる以前、この… 続きを読む
思い出ばなし スキー場の思い出 |武田 出 もう30年たちますが、私は小学校2年の時から大夕張を離れる小学校6年の冬まで、富士見町1丁目22番に住んでおりました。 冬休みともなると、今みたいにゲームボーイも、ベイブレードも無い時代ですから、毎日毎日、朝から晩までそのスキー場で滑ってました(上から降りてくるとその惰性で玄関まで入れるよう… 続きを読む
思い出の街角 昭和32年 大夕張駅 見送りの風景3 昭和32年4月 大夕張駅 見送りの風景3 祖父長谷川安造が昭和13年春以来19年間勤めた鹿島小学校を転勤になり、大夕張に別れを告げた。 大夕張駅ホームでの見送りの様子。 白黒写真に着色した画像 大夕張駅 【泊川俊徳】 (2007/03/28(Wed) 11:13) 子供の頃、大夕張駅は随分大き… 続きを読む
思い出ばなし 取水堰付近の思い出|野崎昭雄 「音のある風景」のなかの取水堰のページを見ると、取水堰上流で、よく泳いだことを思い出します。 選炭した下流とは違い、じつにきれいな流れでした。 取水堰の堰下で、心得のある人は、よく八目うなぎを採っていました。 取水堰の上流で泳ぎ空腹になると、焚き火をし、ようやく伸びてきた山ぶどうの若いつるを… 続きを読む