父とカメラ

1922
白黒写真に着色した画像

 

高い雪壁の前でファインダーをのぞく父  昭和30年頃

 

 


 父は、当時カメラに凝っていたという。

 自分は、当時のそんな姿は見ていないが、たしかにアルバムには、家族や同僚を対象にした写真が多く残っている。

 

 昭和20年代、あまりカメラを持っている人も少なかったと、むかし母がよく言っていた。

 

 母がこの話をするときには、必ず、

 

「内緒で買ってきた。しばらく黙っていたけど、後で聞いたら、二月分の給料、くらいの金額だった」

 

みたいな話がついてきた。

 

 しかし、時代はたち、息子である私も妻に内緒で、PCの周辺機器をこっそり買っていたこともあった。

 

 しかしさすがにカメラは高価で目立つ。

 

 大夕張には愛好家のカメラ倶楽部があり、父も入っていたようだ。

 父が家にいないと思ったら、炭砿病院の暗室で現像をしていたというような話も母からよく聞かされた。

  

 小さい頃、父に連れられて、レントゲン室?暗室に入れてもらって現像の様子を見せてもらったこともあった。

 現像液に印画紙を入れると、撮影された人物や風景が浮かび上がってきた。父がなにか説明をしてくれていたような気もするが、なんだかチンプンカンプンで、不思議な手品を見ているようだった。

 

  

 1960年代頃になると、重くて大きいこのカメラより、普段使いには、小型のオリンパスペンを使うようになった。

 

 中学生になったころ、「使ってもごらん」と言って、父から渡されたことがある。

 

 露出とシャッタースピードを、2パターンくらい覚えればだいたい間に合うから簡単だ、と教えられ、自分でもなんとか使えるようになった。

 

 ただ、そのオリンパスペンは、大夕張を出てから、どこにいったのかわからない。

 

    

 下のカメラは昭和30年頃のものだと思うが、父の死後一度も使っていなかった。

 

 家のタンスの奥でずっと眠っていた。

 

  

 若い頃、一時、勉強もしたが、露出に、絞りや、シャッタースピードなどというのが、面倒で大変で、結局『写るんです』やデジタルカメラが出ると、それを使っていたが、2000年頃、大夕張がダムに沈むと聞いて、その姿を収めたいと、初めて一眼レフを購入し通った。

 

 

 

  

 下の写真は、撮影のために30年ぶりにだしたもの。

カメラとといっしょに露出計や、フィルター、フィルムの空き箱などでてきた
説明書もまだしっかりしていた

 

当時、撮影していた写真


備忘録

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