月: 2022年2月

湖畔の覆道 思い出の街角

湖畔の覆道

三菱大夕張鉄道、南部からシューパロ湖駅に向かう途中、青葉トンネルを過ぎたところにあった落石防止の覆い。 すでに線路はなく、サイクリング道となっていたらしいが、冬の大雪はすべてを覆い包んでいた。   シューパロ湖畔を上空から遠望し、覆道の位置がはっきりする・・・   https://ooyubari.…
関西から スキーのはなし | 近藤志津枝 随想

関西から スキーのはなし | 近藤志津枝

寒い日が続いていますね。 北海道はいつも雪だるまマークですね。  今年は各地、大雪被害も多大でお気の毒です。  大通り公園の雪像を できあがる様子をインターネットで見ています。 (観光客気分ですみません)   スキーのはなし。  3才でスキーをはきました。みなさんこれぐらいですよね。  富士見町ゲレ…
モディリアーニの『 腕を広げて横たわる裸婦 』|高橋正朝 #77 続・大夕張つれづれ

モディリアーニの『 腕を広げて横たわる裸婦 』|高橋正朝 #77

    例によって、飯田さんが編集した明石町の住宅地図をコピペ。      昭和43年明石町住宅地図  この地図をピンチアウトすると、高島ラーメン店の右側の家に、渡辺 と書かれているのが見える。       渡辺 さんは、大夕張鉄道の保線の仕事をしていた。  キミコ さんという一人娘がいた。  私の…
昭和48年の街 その1 閉山を迎える街

昭和48年の街 その1

  「思い出帖-パノラマ」に掲載している『昭和48年 大夕張 街並みの』の写真は、閉山直前のにぎやかな街の最後の姿ですが、一連の写真を一枚ずつ掲載していきます。 夕張岳の麓。大夕張の街。1973年(昭和48年) 『昭和48年 大夕張 街並み』のパノラマ写真はこちらから。 https://ooyuba…
明石町に住んでいました | 菅野彰彦 随想

明石町に住んでいました | 菅野彰彦

 当時は小学校の低学年で、3年を終えると釧路に越しました。   線路づたいに千歳や大夕張まで歩いていったこともよくありました。  明石町の鉄橋の近くにあった古い駅舎は秘密基地でした。   明石町に住んでいたころは、夕張がとても都会に思えていて、それも懐かしいですね。   不思議と寂しいという気はしな…
昭和47年 三吉神社 思い出の街角

昭和47年 三吉神社

昭和47年頃、三吉神社(千年町) 三吉神社は戦前に開設されたという。 千年町在住の中島政雄氏(中島組-北宝建設)が建立したもので、初めは明石町にあったが、大夕張ダム建設による水没のため、千年町に移されたといわれている。   氏子が多く、開運や厄払いで一時は賑わいを見せたという。   多くの商店が建ち…
八百五十のゲレンデ(3) 楽しかった日々

八百五十のゲレンデ(3)

『大夕張小唄』にも詠われた『八百五十』。  見渡す限りの銀世界  スキーで鍛える この体    スキーをするには絶好の斜面で、ヒュッテもあった。 山神社から尾根伝いにいくコースと、沢づたいに行く2つのコースがあった。 ヒュッテは、吹き抜けの2階もあり、スキーの合宿ともなると十数人もの人数が宿泊する大…
八百五十の思い出|ziny 思い出ばなし

八百五十の思い出|ziny

やっぱ、思い出は神社の横道から始まる。 じっくりと夕張岳を眺めてから細道を滑り降りていった。   40年前、小学4~5年生の頃何度か行った。 永森恒夫先生に連れて行ってもらった時もあります。   急斜面を前にしてスキーを担ぎ、第1の壁、第2の壁を汗を流しながら登った。  途中、きつつき(あかげら)の…
歳末助け合い風景(永原呉服店前) 思い出の街角

歳末助け合い風景(永原呉服店前)

大夕張労働組合解散記念誌『未来に向かって』より。 写真には、昭和32年12月15日と説明されているが、当時と大夕張では珍しい乗用車が映り込んでいる。ザッとネットで調べて見ると、トヨペットマスターという車ではないかと思われる。 場所は、千年町、永原呉服店前での歳末助け合い運動の風景。   永原呉服店は…
氷柱 写真

氷柱

その昔、吉井薬局となりのだるま食堂だった建物。 隣の建物とともに最後まで駅前に残った。   軒先に大きなつららが下がっていた。  …
6号付近切り取り跡 思い出の街角

6号付近切り取り跡

昭和37年頃 六号(竜田の沢)付近の切り取り跡。 常盤町からみると二つの切り取り跡が見えるが、千年町側(向かって右側)のように見える。 白黒写真に着色した画像   土砂の取り除き作業   【お父ちゃん】(2007/07/03(Tue) 10:18)  三菱鉄道の保線区の仕事で、毎年、春秋の二回線路脇…