月: 2022年7月

1983年(昭和58年) 昭和

1983年(昭和58年)

3月 道立夕張東高校閉校。閉校記念誌『岳窓』を発行。 鹿島消防団長安月允也退任。16代目星靖男就任。  4月 1日,鹿島小第14代会田鉄男校長。 鹿島中第12代高林広己校長。 9月 大夕張ダムかさ上げに伴う奥鹿島農地地区の条件9項目を提出(白金地区) 10月 大夕張ダムカ上げ用地調査に関わる覚え書き…
ミミズの謎 | 内川准一 随想

ミミズの謎 | 内川准一

 自分のことを言うと、物好きな人間で、興味がわくといろんな所に出向きます。  同時に、わからないことにはいつまでも拘泥するナンタラ質の面があるようです。   そんな私が、無農薬農作物を買いに、かみさんを連れて北広島まで出向きました。   そこで、虫食いの穴だらけのキャベツを発見しましたが、さすがにこ…
大夕張鉄道 車内風景 運んだ、石炭を人を

大夕張鉄道 車内風景

 車窓には、冬景色。  この写真を撮影した本間正雄さんからは、昭和62年頃の撮影だと聞いた。    そうだとすると、すでに大夕張炭鉱閉山から14年が経ち、大夕張鉄道も昭和62年7月に、清水沢~南大夕張間7.6Kmが全線廃止になる。  その直前の冬の頃だろうか。    昭和60年(1985年)に62名…
大夕張炭山若葉坑々務所付近 其の一 絵葉書

大夕張炭山若葉坑々務所付近 其の一

  『大夕張炭山』の絵葉書(小紙商店発行)  明治大正期の頃の大夕張炭山。    どういうまとまりで発行されていたのかわからないが、今でも古書店などでは、バラ売りで売っているのを時々見かける。  自分が入手したのは、20年程前だが、『近江堂発行(つるや)』の記載がある夕張炭山のシリーズとセットになっ…
富士見町3丁目33番地 思い出の街角

富士見町3丁目33番地

   昭和44年(1969年)6月の山神祭。  住所は、富士見町3丁目33番地。  当時住んでいたアパートの前。啓心寮の裏手の土手の上にあった。  後ろに見える窪地は、啓心寮の炊事場の裏手にあたる。    今ではあまり見なくなったご近所さん同士の四方山話。  なつかしいご婦人達の顔ぶれの中に母もいる…
大夕張で見た最後の映画、〘 マタンゴ 〙|高橋正朝 #100 続・大夕張つれづれ

大夕張で見た最後の映画、〘 マタンゴ 〙|高橋正朝 #100

    〘 マタンゴ 〙は、私が、鹿島中学校3年生のときに、協和会館で見た映画だ。  私が、大夕張で見た最後の映画だった。     初公開は、1963年8月11日とウイキペディアに出ている。  映画の初公開の日付からすると、大都市のお盆休み期間の興行を目論んだのだろう。      私が、協和会館でこ…
三菱大夕張礦業所 人車による入坑の状況/選炭場石炭積出 絵葉書

三菱大夕張礦業所 人車による入坑の状況/選炭場石炭積出

 昭和15年(1940年)頃、発行の絵葉書による。   『選炭場石炭積出』のタイトルの大夕張炭山の写真。  石炭とともに木材を搬出する貨車もつながれているが、昭和9年(1934年)から昭和14年にかけて、主夕張森林鉄道がシューパロ川上流に竣工し、炭山駅を起点に木材を搬出した。 『人車ニヨル入坑ノ状況…
青函連絡船 船室にて 学び舎の思い出

青函連絡船 船室にて

   親たちの世代は『内地』と呼んでいた本州。  昭和30年代、父の故郷が栃木だったため、5才頃、初めて青函連絡船に乗って本州にいった。  青函トンネルもなく、飛行機も一般的でなかった時代、船に初めて乗った印象は強烈で、甲板から海を見ていると吸い込まれていくような、えもいわれぬ不気味な恐怖のようなも…
取水堰の八つ目 | 泊川俊徳 思い出ばなし

取水堰の八つ目 | 泊川俊徳

メタノール工場横にあった 堰堤での話。   小学校の頃、父が雨で増水した堰堤附近の川で、八つ目を水汲みのバケツ、2つ・3つ採って来ていました。   父は八つ目採りが得意だったようです。   釣り竿は、使わないで採って来てました。   雨で増水した川岸に、八つ目が集まる場所があるようでした。   バケ…
下夕張森林鉄道 夕張岳線 (桜ヶ丘) 思い出の街角

下夕張森林鉄道 夕張岳線 (桜ヶ丘)

   正面には雲にかかってはいるが夕張岳。  その夕張岳に向かって伸びる軌道。  撮影は、おそらく昭和30年代。  南大夕張を起点として下夕張森林鉄道は、昭和14年(1939年)に着工され、昭和20年(1945年)までに16.8kmが竣工した。  夕張岳線は、二股(後の大夕張ダム付近)で下夕張線と分…
昭和48年 栄町商店街 思い出の街角

昭和48年 栄町商店街

 時々、ホームセンターに行くと、ペット売り場の前で足がとまる。今は生き物は飼っていないが、中学生の頃家で金魚を飼っていた。  大夕張では、伊藤玩具店で扱っていたように思う。  店頭では、「和金」と「デメキン」くらいしかいなかったと思うが、それでも水槽を眺めていたり、お小遣いで買う金魚を選ぶ時間が楽し…
桜ヶ丘 住宅地図 その2  開拓・白金

桜ヶ丘 住宅地図 その2 

 以前、桜ヶ丘開拓地の開拓農家の入った地図を、山影さんと小野寺さんの追想から作成したものを掲載した。  今回、ある方の手を通して、桜ヶ丘の元住民、鈴木さんが作成したという地図が手に入った。  下の地図は、鈴木さんが60年前を回想し、作成した地図をもとにつくった。  ただ家のあった場所は記憶にあるもの…
協和会館の映画ポスター〘 ある脅迫 〙|高橋正朝 #99 続・大夕張つれづれ

協和会館の映画ポスター〘 ある脅迫 〙|高橋正朝 #99

   この映画のポスターを、私が、鹿島東小学校の6年生のときに、協和会館で見かけただけで、映画そのものは、実際には見ていない。       〘 ある脅迫 〙は、日活が製作した映画である。       当時、協和会館で上映する映画は、洋画が多かった。  もちろん、邦画も上映していた。       その…
昭和40年代 大夕張駅前 思い出の街角

昭和40年代 大夕張駅前

昭和45年(1970年)頃の大夕張駅前。 駅前広場から駅前の商店街を見る風景。 大夕張郵便局の前には、クリーム色のボディと赤い屋根から『丹頂形』と呼ばれた公衆電話ボックスが見られる。 昭和29年(1954年)頃から、日本全国に登場したものだというが、大夕張で見るようになったのは閉山前後のことではなか…