明石町駅の待合室 | 高橋正朝 #105

1957

  

飯田さんが編集した写真をコピペ。 

  

昭和40年頃、明石町駅駅舎   

昭和33年11月3日に、明石町駅のプラットフォームから、上り線の鉄路の下をくぐる横断歩道ができた。 飯田さんが編集した年表には、こうでている。 

  

1958年(昭和33年)

•••••• 一部省略 ••••••

11月 4日,明石町駅に旅客用地下歩道完成。 

 

これで、雨の日や雪の日に、汽車が来るまで、安心して待合室にたむろすることができた。 私が、鹿島東小学校4年生のときである。

   

当時のことなので、明石町駅の待合室は、子どもたちにとっては、適当な遊び場だった。

   

待合室だけでなく、時には、写真に写っているように、小さな広場で、三角ベースの野球をやったりしていた。   

写真には、3人の子どもが写っているが、たぶん、この後、最低でも2〜3人は増えただろう。

写真の撮影日は、昭和40年頃となっていて、団塊の世代の私より一世代年少になるが、まだまだ子どもは多かった。 ただし、この写真の撮影年月の正確なことはわからないが、その頃には、私たち一家は札幌に引っ越していたと思われる。

    

待合室には、壁の2方向に、板で誂えた腰掛けがあった。

この腰掛けは壁に直接取り付けられ、下部は板で囲われていた。

駅前の小広場側の腰掛けの長さは、外便所があった側の腰掛けの長さよりも少し短かった。 これは、駅の正面に出入口があったからである。  

 

改札口がある壁に、直角に、この腰掛けの長手方向が設けられていたが、その上部に、ガラスがはめ込まれた掲示板があった。 時どき、その掲示板には、八ツ切や四ツ切の写真が貼られ、入選とか佳作などの札がつけられていた。

   

撮影者のなかには、鹿島東小学校で4〜6年生のときに同級生だった女子生徒の父親の名前を見ることが度々あった。  

撮影者は常連が多く、風景写真のほか、被写体が女性の場合もあったが、さすがにヌードはなかった。  

 

この板造りの腰掛けでは、パッチの遊びをした。 短い長さの腰掛けで、端部にパッチを置いて、平手でパッチを弾き、最も遠方に弾いた者が、少距離のパッチを得るのだ。  

 

パッチを遠方に弾くため、思いっきりパッチの端を弾くのだが、そのとき、平手が、腰掛けの板をも叩くことになり、手の平の指のつけね周辺が、桜色になってかなり痛んだ。

   

パッチの遊びは、他に、地面や床に枠を描き、その枠の中に置いた、相手方のパッチを、自分のパッチを当てて枠の外に出すか、パッチを煽り当てて、相手方のパッチをひっくり返す方法だった。

   

このパッチ遊びをする少年もいれば、全然しない少年もいた。 

  

少女が、この遊びをしているのは、私は見たことがない。 

 

明石町駅前の小広場での、三角ベースの野球の話に戻す。  

1958年(昭和33年)は、私の実感としては、大夕張の景気のピークだったころだ。

前年の1957年(昭和32年)には、大相撲の巡業があったくらいだから、とても明るかった。 子どもが多かったこともある。

   

それで、明石町駅前での三角ベース野球では、いつも、12〜3人ぐらい集まった。

そこに、駅員の人が、2〜3人加わるのだ。 そのときの2人の駅員さんの顔は、今でも記憶にある。

   

野球の最中、時には、駅員が駅舎の窓を開けて、『✕✕ちやん、電話だよ』と、同僚を呼んでいた。

   

いくら、イナカの鉄道だったとはいえ、のどかだったなァ ••••••。

   

ちなみに、写真の左右にある立木はポプラである。 右側のポプラのある場所には花壇があり、ヒマワリやスミレなどが植えられていた。 私は動植物には興味がないせいか、他の花についてはあまり記憶にない。 駅員さんが花壇の手入れをしているのを、時どき見かけていた。 

  

この写真のポプラには葉はなく、背景の山の木々の枝から読みとると、晩秋を感じさせる。

待合室の中央にはストーブがあったが、この写真の時期では、まだ、石炭を焚いてはいなかったろう。

     

パッチの遊びに飽きて、ある日、短い長さの腰掛けの端部の上部にぶら下がっていたノートを開いて見た。 このノートの存在には以前から気づいていたのだが、全然気にしてなかった。

 

このノートは、夕張岳に登山する人が、自分で、連絡先を記帳するものだった。 遭難事故を慮ってのものである。 

  

この連絡ノートがぶら下がっている壁には、注意書きはなかった。 しかし、大夕張の外から、わざわざ汽車に乗ってくるような登山者には、駅の出入口にノートがぶら下がっていれば、連絡先を記帳するノートだと気づくのが普通のようである。

   

この写真は、時どきではあるが何回か見ていた。 今回の投稿のため、写真をコピペした際、写真をピンチアウトして、しげしげとながめたが、入口に女性が佇み、外を眺めている姿を発見した。

   

右手にバッグかカバンのようなものを提げている。 白い長靴を履いているようにも見えるが、もしかすると、白いソックスかもしれない。 着ているものは、東高の制服のようにも見えるが ••••••。 この女性はいったい誰であろうか?

(2022年 8月14日 記)


 

(筆者略歴)

 昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。



    

  

1件のコメント

  • 高橋さんが明石町駅待合の椅子でやっていたパッチ。
    自分の中では、大中小とあった丸い『パッチ』に加えて、四角くて小さ目のものを『ドンドコ』と呼んでいた。
    上からたたいて、はじきとばしたりひっくり返すのにはパッチ、板の端からたたいて距離を競った遊びにはドンドコ、と使い分けていた。
    手でたたくと、テッパ?とかいって反則扱いしていた。
    =
    家近くの路地や空き地でミカン箱などの木箱をひっくり返したものを使った
    (不思議とどこの家の側にはころがっていた)
    平らで、ある程度広さのある場所ならどこでもやっていた。
    勝ち負けでとったり、とられたり。強い子のパッチは増える。
    だから勝つために、新しいパッチの縁を揉んで少しでも厚みを増やしたり。。。
    でも縁の厚みを増すと、攻撃するには強いけど、攻撃を受けると、いとも簡単にとばされると気がついていなかったのが今考えるとおかしい笑。
    強い子はホントびっくりする程たくさんパッチやドンドコをもっていた。

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