月: 2022年8月

大夕張っ子の茶飲み話 思い出ばなし

大夕張っ子の茶飲み話

 ある日、あるとき昔の子どもたちが、チャットをしていた。  ピーヒャラ、ピーヒャラ笛の音と花火の音。    1950年代に生れた人たちのようだ。  話は、お盆の話から花火の話に・・・・。    みなさん、こんばんは。静かなお盆をお過ごしでしょうか。 炭鉱も石炭で湧いた景気いい時代でした。 暗くなりだ…
明石町駅の待合室 | 高橋正朝 #105 続・大夕張つれづれ

明石町駅の待合室 | 高橋正朝 #105

   飯田さんが編集した写真をコピペ。     昭和40年頃、明石町駅駅舎    昭和33年11月3日に、明石町駅のプラットフォームから、上り線の鉄路の下をくぐる横断歩道ができた。 飯田さんが編集した年表には、こうでている。     1958年(昭和33年) •••••• 一部省略 •••••• 1…
山麓の谷間に花咲かず-大夕張閉山初期のあゆみ 随想

山麓の谷間に花咲かず-大夕張閉山初期のあゆみ

   夕輝文敏さんが、小説『タイムカプセル』で、閉山後の大夕張の明るい未来を描いてみせた。 しかし、実際は上手くいかなかった。    閉山という地域崩壊の危機状況に直面し、現実に対応しながらその後の大夕張をよりよい方向に持って行こうとして努力した人々がいた。    ダムによる故郷喪失という状況の中で…
桜ヶ丘神社 思い出の街角

桜ヶ丘神社

 『シューパロ塾郷土誌研究調査報告(H14)』によると、この写真も、桜ヶ丘小学校小野寺利秋氏所有していた写真。  桜ヶ丘の農作物は、カボチャ、トウキビ、大根、豆類が多かったという。  桜ヶ丘での暮らしは、生活用品などの買い物には、南部や大夕張まで行った。  開墾当初(昭和23年頃)沢水を使い、ランプ…
桜ヶ丘小学校 学び舎の思い出

桜ヶ丘小学校

  昭和21年(1946年)、桜ヶ丘に開拓農家の入植が始まり、昭和29年(1954年)には、22戸が営農していた。   昭和23年(1948年)7月に住民の要望もあり、南部小学校の仮教室11人での授業が始まり、その年の11月に桜ヶ丘小学校として開校した。   当初は、離農農家の家屋を校舎として使用し…
小学校の通学区域変更 | 久々湊真一 随想

小学校の通学区域変更 | 久々湊真一

   私は昭和29年(1954年)に鹿島小学校に入学しました。  しかしながら 昭和30年末に学区の変更があって、小学校2年の終わりに強制転校となり、鹿島東小を卒業しました。   通学区域変更の内容は、泉町の川(宝の沢)を境に、千年町駅側は東小・大夕張駅側は鹿島小の区分けでした。   私なんぞは、 …
父と七夕の記憶 | 宮内文人 楽しかった日々

父と七夕の記憶 | 宮内文人

   父親が他界して8年になりますが、若いころは写真撮影の趣味もあって、暗所でよく現像している様子が記憶に残っています。  投稿写真は、昭和33年8月7日の七夕祭りの様子です。    代々木町8丁目に住んでいました。  2歳の私が写っております。    同じ長屋に山本さんという方がいて、よく私のこと…
たなばたの思い出|小野美音子 思い出ばなし

たなばたの思い出|小野美音子

 緑ケ丘のブロック2棟8軒で、心に残る七夕があります。   当時小学校6年生の兄が企画し、音頭を取って、皆が楽しみました。  兄達が大きめの笹を用意し、皆に願い事の短冊を書くように言いました。  そして、それは2階の星山さんへの階段のところに、きれいに飾られました。    リンゴ箱のステージで、小さ…
あるときは片目の運転手 ••••••7つの顔の男〘 多羅尾伴内 〙| 高橋正朝 #104 続・大夕張つれづれ

あるときは片目の運転手 ••••••7つの顔の男〘 多羅尾伴内 〙| 高橋正朝 #104

   当時、チャンバラ映画ほどではなかったが、ギャング映画も結構製作されていた。  代表的なものとしては、片岡千恵蔵の多羅尾伴内シリーズがある。  私は、大夕張劇場で1本しかみていないが、私の年代の少年たちには人気があった。 少女たちに人気があったかどうかは知らない。      『あるときは片目の運…
炭礦(ヤマ)に希望の花も咲く 昭和34年 礦業所選定歌 音の風景

炭礦(ヤマ)に希望の花も咲く 昭和34年 礦業所選定歌

   昭和34年の三菱大夕張礦業所選定歌、B面。    作曲と編曲は「大夕張の歌」と同じ桑山真弓、山口俊郎。 作詞は地元の佐藤貞雄氏だろう。  それだけに叙情的に炭鉱町の四季を歌った「大夕張の歌」に対して、炭鉱で働く男の誇りと心情が歌われる。    歌う北見和夫は、A面の「大夕張の歌」の当時すでに人…
旧農場付近 思い出の街角

旧農場付近

  開墾伐採のあとか、このあたりの湖底一帯は、多くの木の切り株が散在していた。   湖畔亭の下、大夕張ダム湖の湖底は、かつて農場(第2農場)といわれた。対岸が桜ヶ丘方面。     戦後炭鉱の人口増により大夕張にも町外れの畑地にも町ができた。 第一農場にも炭鉱住宅が建設されて、明石町となった。それによ…
大夕張の歌 昭和34年 礦業所選定歌 音の風景

大夕張の歌 昭和34年 礦業所選定歌

「大夕張の歌」と「炭礦(ヤマ)に希望の花も咲く」がA面、B面のSP版のレコードから採録。 昭和34年11月に三菱礦業所選定歌としてキングレコードから限定発売された。   通称『大夕張音頭』『大夕張小唄』ともいわれ、炭礦全盛時代は、とてもにぎやかに唄われていた。 鹿島小学校の鼓笛隊でも、レパートリーの…
馬頭観世音(鹿島眺望公園) 訪問記

馬頭観世音(鹿島眺望公園)

     鹿島眺望公園に立つ、馬頭観音。  眺望公園の中で、唯一戦前の大夕張を伝える碑である。  住民が立ち退く前、千年町の住宅地の裏手にあった。   手塚治虫の『鉄腕アトム』で「10万馬力だ♪鉄腕アトーム♪」というフレーズ。  「『一馬力』ってどれだけの力?」と親に聞いたことがあった。 「馬一頭が…
富士見町3丁目33番地 その2 思い出の街角

富士見町3丁目33番地 その2

 昭和43年鹿島小学校を卒業して中学校に入った、その年の5月頃だろう。  後ろには、富士見町の独身寮『啓心寮』  土手下のテニスコートや空き地は、『遊び場』だった。    富士見町3丁目33番、それまで木造の住宅から引っ越し、大夕張で最後に住んだブロック住宅。  家の中は、ペチカがありトイレは和式水…