写真 屋根の雪 その昔、吉井薬局となりのだるま食堂だった建物。 隣の建物とともに最後まで駅前に残った。 2002年冬 誰も居なくなった大夕張で、名残を残していた。 ドカ雪の翌日、トタン張りの屋根に積る雪が暖気にとけ、つららを伝った水が軒先にしたたる。 それでも春はまだ遠い。 2002年(平成14年… 続きを読む
思い出の街角 鹿島中学校常盤町校舎全景 I 鹿島中学校を常盤町の住宅街からみた画像。 玄関が三つ。 左手東側が生徒玄関。 中央が正面玄関。 向かって右手が西玄関。 西玄関は、給食室に近く主に物品の搬入に使われていたのだろうか。 白黒写真に着色した画像 … 続きを読む
楽しかった日々 八百五十登行 その2 昭和28年(1953年) 前回『八百五十登行 昭和28年(1953年)』と同じ時の写真。 この日は湿った雪だったのだろうか、雪がつかないようにワックスを塗布している写真が残されている。 もっとも、大人たちはともかく、子どもたちはワックス、イコール白い蝋燭のことだった。 スキー場に出かけるときは必ず、ローソクを一本ヤッケの… 続きを読む
楽しかった日々 八百五十登行 昭和28年(1953年) 昭和28年2月15日。 写真の裏に「八百五十登行」と祖父の覚え書きがある。 この日は、カレンダーを見ると日曜日だった。 参加者は、中央に顔が見える石垣校長をはじめ、鹿島小学校の先生達の一行だったのだろう。 ところで「登行」・・・(とこう)という言葉に聞き覚えのある人もいたのでは。 スキー… 続きを読む
陳列棚 徽章コレクション 1998年2月5日、札幌駅近くの札幌第2ワシントンホテル2階『いろり番』で当時『ふるさと大夕張』のオフ会が行なわれた。ネットで知り合った人たちの初めての顔を合わせての会だった。 興奮冷めやらぬその様子は、今も『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)の『交流会の記録』で読むことができる。 その際に、佐藤… 続きを読む
あらかると 昭和26年(1951年)鹿島東小学校 開校の頃 白黒写真に着色した画像 浜出栄子先生とは、自分が大夕張を出てから祖父の家で何度かお会いしたことがある。 叔母の結婚先の親戚筋になる。 その縁で、祖父の家には何度か遊びに来たことがあった。 すでに昭和も晩年の頃だったと思うが、その頃、自分も祖父の家で暮らしていたので、印象がある。… 続きを読む
あらかると 「町」の呼び方 今朝の新聞に日本の「市町村」の町の名を「まち」と読むか「ちょう」と読むか、どちらで読むかについての記事があった。 記事によると、東日本では「町」を「まち」西日本では「ちょう」と呼ぶ傾向にあるという。 その理由については不明、今後の研究に待たれると結論づけている。 「市町村」単位の「町」… 続きを読む
回想・随筆 黄色い旗と思い出ノート 3 以下、『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)の方に今も掲載されているページを、そのまま転載します。 平成10年(1998年)4月から平成12年(2000年)にかけて記入されたものを第一集から第三集として、3回に分けて、今回は第三集(平成12年分)を掲載します。 平成10年 すでに廃校に… 続きを読む
回想・随筆 黄色い旗と思い出ノート 2 以下、『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)の方に今も掲載されているページを、そのまま転載します。 平成10年(1998年)4月から平成12年(2000年)にかけて記入されたものを第一集から第三集として、3回に分けて、今回は第二集(平成10年~11年分)を掲載します。 平成10年 すで… 続きを読む
2丁目3番地 千年町小泉呉服店の風呂敷 先日久しぶりに鹿島小学校、中学校の時の同級生みほさんとメッセージのやり取りをした。 その中で「高校時代もっと勉強しておけば」という話題になった。 自分の事で恐縮だが、昔の風俗や暮らしに興味があった自分は、いまさら「万葉集」、「◯◯日記」などの古典ものにふれて(「読んで」とは言えない笑)昔の人… 続きを読む
2丁目3番地 夕張奇譚テーマソング タイムマシン 先日、『夕張奇譚 其の二 ダム湖に沈んだ街』で、紹介したYouTube番組の中に挿入されていた、夕張奇譚のテーマソング「タイムマシン」という曲。その曲の部分だけが編集されて、『ゆる怪』さんのYouTubeチャンネルにアップロ-ドされた。 そのことを制作者の『ゆる怪』さんが、コメント編の方にリン… 続きを読む
街の行事 大夕張山神社 裸まいり 1968年 2025年正月静かな元旦を迎えた。 札幌に住む自分にとって雪が積る窓の外の白い風景は、子どもの頃に過ごした大夕張の風景と何ら変わりがない。 とくに夜になると、窓の外の漆黒の闇をほんのり明るく照らす雪明りは、ある懐かい感情を覚えさせる。 写真の裸まいりの写真には、掲載されている『鹿島で暮… 続きを読む