2丁目3番地 札幌にあった三菱の宿泊施設 その3 旧永山邸の門柱と旧三菱鉱業寮の建物 札幌市中央区北2条東6丁目、大型商業施設の隣りに三菱鉱業が所有していた、旧永山邸がある。 永山邸は、明治10年代に建築された永山武四郎の私邸。 1911年(明治44年)に三菱が買収し、事務所として使用、1937年(昭和12年)に北1条通りに面した北側部分… 続きを読む
2丁目3番地 札幌にあった三菱の宿泊施設 その2 (前回のつづき) 前回、 Masaaki Saito さんの南3西23あたりにあった宿泊施設と、自分の北1西8にあった宿泊施設の思い出について掲載したが、同じような思い出をもち、何か覚えている方がいるのではないだろうか?と思い、何人かの方に聞いてみた。 その記憶を以下に紹介する。 (Kawa… 続きを読む
2丁目3番地 札幌にあった三菱の宿泊施設のはなし その1 先日、鹿島中学校の同級生のMasaaki Saitoさんから、メールがあった。 札幌にあった三菱の宿泊施設についてだった。 Masaaki Saitoさんのメールによると、その宿泊施設は、南3条付近で、西は23丁目前後だったという。 そこに宿泊した時の思い出を次の様に書いてくれていた。 お… 続きを読む
2丁目3番地 3年目の独り言 昨日12月8日で、『ふるさと大夕張』の更新を再開してからちょうど2年たちました。今日から3年目。 備忘録ということで、例によって自分のために節目の記録として残していきたい。 昨年1年経ったときには、次の様に書いていた。 『今後も、旧『大夕張掲示板』や、旧『住民登録』の投稿を、現在の『夢の… 続きを読む
2丁目3番地 2001年10月28日 ~私のふるさと物語~その4 当日を迎える迄に、何回か、番組製作会社の方と連絡、打ち合わせをした。 自分の役割はたぶん当時のネットでつながっていた仲間の人たちに、人を大夕張に集まるお願いをしたというところだろうか。 先にも書いたが、どんなことを打ち合わせて、自分が何をしたのかはすっかり忘れてしまった。 それでも、自分も含… 続きを読む
2丁目3番地 2001年10月28日 ~私のふるさと物語~その3 この大夕張のロケの発端や、自分の詳しいかかわりなどは、20年前のこととて、すっかり忘れてしまった。 ただ大夕張がダムに沈むということで、当時は『消える大夕張への思い』が、各種メディアで盛んに取り上げられ報じられてていた。 下の新聞記事は、故郷への思いをテーマに、自分も取り上げられた… 続きを読む
2丁目3番地 2001年10月28日 ~私のふるさと物語ロケ~その2 午後11時頃、最初に、鹿島小学校校歌の歌唱シーンの収録から始まりました。 鹿島小学校鼓笛隊生みの親、田中豊一先生(田中先生は2010年にお亡くなりになりました)のピアノ伴奏に合わせて、「ああ、大夕張」の合唱がグラウンドに響きます。 イリュージョン。かつての大夕張駅前通り。元住民達が懐かしそうに笑顔で… 続きを読む
2丁目3番地 2001年10月28日 ~私のふるさと物語ロケ~その1 平成13年(2001年)10月28日、住民が立ち退き人のいなくなった無人の大夕張に、多くの人が集まった。その時のことを当時参加した斎藤敏幸さんが、後日、次のように書いている。 10月28日、大夕張に一つの奇跡が起こりました。 その日、鹿島小学校校庭に、50人以上のかつての子どもたちが集まり… 続きを読む
2丁目3番地 『熊撃ち』の写真 後日譚 https://ooyubari.com/2021/06/21/kumauti/?hilite=%E7%86%8A%E6%92%83%E3%81%A1 以前、『熊撃ち』と題する鹿島小学校の郷土室にあった古い一枚の写真を掲載した。 (その写真は、上のリンクから見ることができる。 また、この記事の一番… 続きを読む
2丁目3番地 午後5時のチャイム 『ふるさと大夕張(1丁目1番地)』で、作成のエピソード的なことを「備忘録-1丁目1番地」で書いて来たが、 鹿島小学校の午後5時になるチャイムのことは 、書いていなかったと思うので、ここに書き留めていこうと思う。 『ふるさと大夕張(1丁目1番地)』を作るまえ、大夕張のことで、鹿島小学校の午後… 続きを読む
2丁目3番地 昭和50年代 学生ボランティア 『NHK日本縦断こころの旅のブログ』で火野正平さんが、鹿島小学校跡地を訪ねた放送回のブログに、昭和53年年から昭和54年頃、当時学生ボランティアとして活動に参加した方からの投稿があります。ここに、転記して紹介すると、 大夕張には今から40年前の夏、訪れたことがあります。 大学の募集したワー… 続きを読む
2丁目3番地 夢 珍しくふるさとの夢を見た。 炭砿病院を過ぎたあたりからその夢は始まった。 栄町の通りを駅に向かってひとり、車で走っていた。 「あれ、ダムに沈んだはずだが・・・」 そう思いながら、雑草が生い茂り、人のいなくなった無人の商店街を走り抜けた。 右手の錦町の山の方に一台の車が止まっていた。 古い… 続きを読む
2丁目3番地 2002年 倒壊した地蔵堂 『無縁供養・水子地蔵』が、当時親類縁者のない人たちの供養と、水子供養のために、昭和16年8月、大聖寺境内に以来建立されていた。 この他、水子供養地蔵は、大夕張のほとんどの寺院にあった。 2002年冬、大夕張の最後の建築物であった『位牌堂(地蔵堂)』が雪の重みで倒壊した。 このことは、… 続きを読む
2丁目3番地 三冊のアルバム 1950年代 場所は『病院の裏の方・・・というが?』 父が残したアルバムがある。 父は大正14年生まれだから、昭和の歩みと、年齢が一緒でわかりやすい、と子どものころ、よく父の年齢のことについて、家族で話していた。 だが父は昭和47年に亡くなったので、47歳までしか数えることはなかった。 … 続きを読む