思い出ばなし

むかあ~し、むかあ~し、ちょっとむかし、こんなこともありましたとさ。
子どもの頃に返って、思い出してみました。

緑の中の大夕張駅 | 野口美代子 思い出ばなし

緑の中の大夕張駅 | 野口美代子

 懐かしの写真の中に、大夕張駅を見て本当に帰って来たと思いました。   停車場(昔私が子供の頃、年寄達は駅のことをこうとも呼んでいた気がします)は人を見送って、見送られ、又会っての繰り返しの場でした。  大夕張駅は、ただただ別れの駅になってしまいました。   札幌へのバスが通るようになって、バス停が…
東小向こう岸のアンモナイト化石 |  小林光志 思い出ばなし

東小向こう岸のアンモナイト化石 | 小林光志

 昭和35年ころ(私が中学1年)、毎日、春日町から鹿島中学校まで登校していましたが、時々悪がき仲間と通学路を離れて登校しました。  春は、うど、夏はスイカ、秋は大根人参などずいぶんご馳走になりました。    シューパロ川に沿って、行くこともありました。特に便所場球場から下流は、川沿いに道のないところ…
猫とブルドック|林 恭子 思い出ばなし

猫とブルドック|林 恭子

 岳富町の写真とても懐かしく拝見しました。   私は昭和37年に炭砿病院で生まれ、昭和45年まで大夕張に住んでいました。   千年町に住んでいたので、大夕張駅に卵を買いに行く時、必ず岳富町の道路を通ってました。  あの頃、駅の待合室に卵売りのおじさんがいました。     岳富町の時計屋さんのショーウ…
サッカーボールの思い出|成松泰彦 思い出ばなし

サッカーボールの思い出|成松泰彦

 中学3年の修学旅行が終わってすぐに転校する事を知っていたが、友人には知らせていなかった。  6月の事だった。  そんな当の本人も、転校の事を知らされたのは、わずか2週間ほど前の事で、心の準備がいた。    何か自分の思い出を残していきたかった。     休み時間になると中庭で、男子も女子も輪になっ…
シューパロ川の灯籠流し|小野美音子 思い出ばなし

シューパロ川の灯籠流し|小野美音子

    お盆も過ぎシューパロ川に秋風が吹く頃となりました。  彼岸を渡った魂は、忘れ去られることを寂しがると聞きます。  私には麻疹の予防注射がもとで、赤ん坊の時に亡くなった兄がおり、毎年、妙法寺の灯籠流しに、参加しました。    まだ日の明るいうち、妙法寺には沢山の檀家の人々が集まり、お上人さんを…
子亡き夫婦のある日の哀と安堵 | 小野美音子 思い出ばなし

子亡き夫婦のある日の哀と安堵 | 小野美音子

 子供を失った母は、父の出勤後、昔風の舅と狭い家に一緒にいるのを辛く思う時があり、映画館に行ったことがありました。    気兼ねなく涙を流せたからです。    しかしそれも舅の意に染まず、母は妙法寺へ向かいました。   裏からそっと納骨堂に入り、亡き子の骨と共に一夜を明かしました。    父は、夜通…
汽笛の目覚まし|今井和弘 思い出ばなし

汽笛の目覚まし|今井和弘

 私は、昭和38年2月に、富士見町5丁目48番で生まれました。  その後、富士見町4丁目1番、富士見町1丁目13番と引越しをして、昭和47年5月に、ふるさと大夕張を後にすることになりました。  その9年あまりの間、思い出は星の数ほどありますが、ここでは4丁目の家での思い出について書きたいと思います。…
大夕張の想い出 | 早坂治敏 思い出ばなし

大夕張の想い出 | 早坂治敏

 自己紹介:昭和26年に生まれて、ずーっと弥生町に住んでました。  鹿島小学校に昭和33年度入学。昭和38年度卒業。  鹿島中学校に昭和39年度入学。父の転居で昭和39年10月17日に大夕張を離れる。  以上が、私が生まれて13年余過ごした大夕張時代です。   小学校時代の恩師の名前は今も記憶してい…
営林署官舎 | 片山利明 思い出ばなし

営林署官舎 | 片山利明

千年町の営林署官舎位置(赤枠)   私の父は営林署に勤務しており、私も昭和43年ころ、千年町の官舎に住んでいました。(父の弟は、鹿島東小の教師でした)  私は、昭和38年生まれで、幼稚園から小3まで大夕張に住んでいました。    5年程前に鹿島東小(3年で転校しましたが)の跡地をみて、もの悲しい思い…
営林署のアルバイト | 大阪の小林 思い出ばなし

営林署のアルバイト | 大阪の小林

昭和50年頃 三菱南大夕張鉱業所とともに、南部貯木場が大きく広がる    小生は、昭和40年7月中旬から、8月中旬までの1ヶ月間、南部にありました大夕張営林署の南部貯木場で、大学の友人2人と共にアルバイトをしました。  当時の貯木場の写真や、写真をお送りした経緯はこちらのホームページにもアップロード…
「べんじょば球場」の思いで|成松 泰彦 思い出ばなし

「べんじょば球場」の思いで|成松 泰彦

   緑町と弥生町との境界の道路を春日町の方に降りていくと、つり橋があったのを覚えてますか?  そのつり橋を渡ったところの球場が、なぜかしら《べんじょば球場》と、呼ばれていました。   私の父はハンターでもありまして、熊が出没したという連絡が入れば、熊退治に出かけて、よく射止めてきたものです。  当…
鹿島国民学校時代と戦後の思い出|T・A 思い出ばなし

鹿島国民学校時代と戦後の思い出|T・A

鹿島小学校グランドは、大夕張住人にとって、最大のコミュニケーションの場所でした。 カエデの木は、その歴史を見つめてきたのです。  昭和17年、国民学校入学。その頃の出来事・・・。  戦前戦中の児童は、校門を通るとき教会のあった場所の奉安殿に向かって、お辞儀をしてから校内に入るのが習慣であった。   …
山祭りの御輿かつぎ |内川准一 思い出ばなし

山祭りの御輿かつぎ |内川准一

   「山祭り」の陽気に誘われて出て参りました。   さて、忘れもしない御輿担ぎ。    出発は弥生町の詰所裏。    到着場所は、千年町のさてどこだったっけ?という程度の記憶ですが。     この日のために、詰所裏の倉庫?から、一年ぶりに引きずり出されるのは、鳳凰のついた立派な御輿。    これを…
春日町と栄町のくらし|小林俊治 思い出ばなし

春日町と栄町のくらし|小林俊治

  鹿島春日町45番地?詰所のすぐそばの家に住んでいました。(昭和29年生~昭和42年まで)  当時は、子供同士なぜか、広場に集まるのが日課で、知らないうちに毎日違った遊びを考えて、遊んでいました。  今考えると、川向こうの沢に入って、ヤマメ釣や川泳ぎをしていましたが、熊に会わなかったのが不思議でし…