随想

いまでも今日のことのように思い出せる。あの日、あの時の出来事。 今日につながる昔のこと・・・。

快い響き|池田憲治 随想

快い響き|池田憲治

 ”大夕張”(おおゆうばり) それは私のように遠く離れている者には、すごく快い響きの単語です。    私は、樺太真岡の鉄道官舎で生まれました。 「九人の乙女」の内の一人伊藤千枝は親類です。  今、私は愛知に住んでいますが、近くに住んでいる叔母は、私の家族と共に移転するまでは、樺太真岡の郵便局に勤めて…
位牌堂(地蔵堂)|内川准一 随想

位牌堂(地蔵堂)|内川准一

 建物が無くなったはずの大夕張に、この春(2002年)まで、実はひとつの建物があった。  千歳町の火葬場に至る道路脇にあった位牌堂(地蔵堂)だ。    あったと言うのは、この春、雪の重みで倒壊してしまったから・・・    中に納められていた位牌2千7百は、散乱しないよう4体の地蔵と一緒に倒れた建物ご…
緑町浴場帰りの兄 |小野美音子 随想

緑町浴場帰りの兄 |小野美音子

   「宝の沢探検」を愛した私の兄、伸也は、大人になっても仲間と川上りで秘境の滝を再発見し、日本の滝百選に応募し選ばれたり、アラスカに行き、ローカルな新聞やTVに出て、母を喜ばせる、ゴッツい山親爺になりました。   そのコワモテの風貌は、新聞屋の親戚の役にも立ち、お金を払わない客の家の玄関に、兄がヌ…
学のある話 |丸山直記 随想

学のある話 |丸山直記

 子供のころから私はクラシック音楽が好きでした。  今でもオーケストラでチェロを弾いています。  あのころ大夕張ではチェロなぞ目にすることもなかったので感慨深いものがあります。  そう言えば、中学校の音楽の先生で、上村先生がヴァイオリンを弾かれ、教えていたのを覚えています。  上村先生はその後、札幌…
七夕の思い出|工藤 央 随想

七夕の思い出|工藤 央

 明石町に昭和45年6歳時まで過ごしていた工藤と申します。  父は夕張東高の教師をしており、校門脇の教員住宅に住んでおりました。    夏場にはバレー部の顧問をしていたため、よく生徒の方が合宿といってうちに泊まりこんでいたのを覚えています。    さて七夕の思い出といえば、明石橋の上から使命を終えた…
あの町が |ヤス 随想

あの町が |ヤス

あの町が忘れられません。 初恋。 今でも覚えてます。久保田美枝さん。   間もなく人生の終わり? ・・・・大夕張を出てから何年過ぎたかな?   今でも鮮明に覚えてますよ。   自分は今では、女房、子供、孫まで居ますが、 貴女は?元気でしょうか? 多分この掲示板には気がつきませんよね?   達者なら何…
父の無念と別れ |森田伸一 随想

父の無念と別れ |森田伸一

 私は昭和37年大夕張の栄町で生まれました。  その後、春日町に引越し、小学校3年生まで大夕張に住んでいました。  今は、山梨県に住んでいます。   閉山を前に炭坑夫の父は、右目に重傷を負い失明してしまい、炭坑夫の生命を絶たれてしまいました。   鹿島を断腸の思いで、離れることになったのです。   …
こころにある故郷|長屋敏子 随想

こころにある故郷|長屋敏子

『林鉄』(りんてつ)の名前が、載っておりました。  今は亡き父母の言葉に出あったように、懐かしい言葉の響きがあります。  ちなみに母は、千年町で『喜多乃屋』の屋号で、そば屋を営んでおりました。  今も年に一度、何も無い家の跡地を訪ねます。   昭和25年頃から48年頃までの思い出が、心に刻まれており…
やまのむこうは? | 丸山直記 随想

やまのむこうは? | 丸山直記

 私は、昭和23年6月10日に緑町で生まれました。   その後、鹿島小学校の裏側の住宅に移り、鹿島小学校、鹿島中学校、夕張東高校を経て、卒業するまで18年間住んでおり、私の精神形成は、純粋に大夕張でなされました。    子供の頃は、頭の中では世界は広いのですが、実感は全く無く、周りの山々の向こうには…
鹿島小学校解体ときいて | 小林秀範 随想

鹿島小学校解体ときいて | 小林秀範

解体工事 標識 期間(平成11年11月1日~12月15日)  鹿島小学校が取り壊されるとの事、  本当に本当に・・・・・さびしいです。  今月ですか?  昨年、私は、親友2名とグランドでキャンプをしました、  今年も、と思っていたのですが、なかなか予定がつかずにいます。  親友は、田森睦夫、遠藤直樹…
私の大夕張 |菅井宏史 随想

私の大夕張 |菅井宏史

昭和33年の富士見町6丁目付近の地図に、赤い線で位置を示したもの。写真は、1997年6月撮影。木と、道の跡が残る。    思わず懐かしさがこみ上げ、『ふるさと大夕張』を見ている内に、色々と当時の思い出が蘇ってきました。    私は、昭和33年に大夕張の常盤町で生まれ、4歳か5歳の時に(昭和37年か3…
初音沢地区 |目黒則男 随想

初音沢地区 |目黒則男

  我々住民は初音沢と言っていましたが、鹿島地区の人々は官行と言っていたようです。   チップ工場、ボタ山、その麓にあった炭鉱用資材を製造する工場、そのあたりを初音沢と呼んでいました。  私の父が、炭鉱用の資材を製造する会社に勤務していた関係で、現地の社宅に住んでいました。  通学には大変苦労した記…
故郷を連想するうた | 野口美代子 随想

故郷を連想するうた | 野口美代子

 近くに住む人は気軽に、遠くに住む人も距離も時間もなんのそので大夕張へ行く。 25年会の便りを読んで私も思いは大夕張へ。  大夕張を思い出す歌のひとつに「懐かしのバァージニア」というのがあります。  ちょつと昔、流行ったので、お若い方達は、ご存じないかと思いますが。   バァージニアを大夕張に置き換…
大夕張への想い | 目黒則男 随想

大夕張への想い | 目黒則男

 昨年6月、父の病気のお見舞いのため、静岡から札幌の実家を訪れました。  そのおりに母から、 「鹿島小学校が廃校になるみたいだよ。」 と聞かされた。   続けて、 「大きなダムができて大夕張が沈むみたいだよ。」 の言葉に一瞬なんのことか、すぐには理解できませんでした。  私が18歳の頃、大夕張から札…