陳列棚 昭和46年 鹿島中学校 教室配置図 美術室,理科室技術科室は,私が学んだ昭和43年4月~昭和46年3月の時はだいたいの配置はこのようなものかと思います。 音楽室は2教室あったんですね。 個人的に記憶をたどると・・・小柄ながら熱のこもった伊清先生の授業が思い出されます。 また、2階に上がる角の技術科室では、山崎先生が、オートバイを… 続きを読む
流れのように 流れのように■銃後の私(2)■|長谷川安造 #8 年がかわり、私は夕張市三菱大夕張礦業所のある大夕張尋常高等小学校に転勤した。 昭和13年の春の頃で、国内情勢、何処も同様な雰囲気で、この地は前任地に比べて、人口も多いだけに、応召兵士の数も多く、殆んど毎日の様に、大夕張駅ホームまで、高学年児童と共に見送ることとなった。 「勝ってくるぞと勇ましく… 続きを読む
街の行事 平和祭り 昭和30年、稚児祭りのひとこまでしょうか。平和まつりとかかれた行灯が見えていますが、当時、「平和まつり」と呼ばれた「まつり」があったかどうかは、覚えていません。詳細はわかりません。大夕張のお祭りといえば、私には6月の「山神祭」と7月の「稚児祭り」しか思い浮かびません。… 続きを読む
流れのように 流れのように■銃後の私(1)■|長谷川安造 #7 昭和20年前までの戦争に参加し、大変な苦労や、戦果を挙げたたこと、又は戦友との悲しい別れ、戦慄厳しい中の色々、家庭的悲喜交々、何れも第一線に臨み、生死の線上に立っての有り難くも尊い体験談をよく聞いたり、読んだりする。 そうした度毎、私はほんとうに長い月日ご苦労様でした、お陰様でありがとうと感謝の… 続きを読む
思い出の街角 栄町2丁目17番 昭和35年 白黒写真に着色をした画像 栄町2丁目17番。奥には栄町浴場、『リハツパーマの千葉理容院』 娘の自転車を直している父。お父さんの背中で戯れている女の子「お父さん大好き」そんな声が聞こえてきます。・・・ヤマの町の穏やかな一コマです。 手前に石炭庫。スコップが見えています。向こうに栄町浴場… 続きを読む
流れのように 流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし③-■|長谷川 安造 #6 今次大戦では、兄の長男(甥)が角田から出征後、満州で訓練を受け、終戦の春、沖縄に移動、6月の那覇市南方の真栄平で激戦の末、戦死した。兄の家は、二男が鉄道に就職し、当時、空知農学校付属寮母職の母を呼び、のちに嫁を取り結婚。岩見沢市内で家を継ぐ形となる。 私の弟は、終戦と同時に、色丹島で捕虜となり、… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和43年 東高女子バレー部 昭和43年 明石町 教員住宅前 東高女子バレー部 【工藤 央】 夕張東高校昭和43年度女子バレー部と思われます。 うち(工藤)に合宿で泊まりにきたときの写真です。… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 明石町付近 眼下の列車 昭和48年 崖の上からシューパロ湖、道道、列車を見下ろして撮影。右手に白銀橋が見え、明石町駅付近。閉山提案の年、黒い鋼鉄に白字のペイントが激動の大夕張を感じさせ、事実この年の12月には、この区間は、廃線となってしまった。… 続きを読む
流れのように 流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし②-■|長谷川安造 #5 沼ノ沢から大夕張に引っ越して間もない頃、忘れられない思いがある。 二女は幼少時、ジフテリアにかかった。 小学1年入学前のこと、病院で、再びジフテリアと診断され、血清注射を受けることになった。 草野院長が、「念のためきくが、この子、これまでに血清注射をしたことはないだろうな」ときいた。 私は… 続きを読む
流れのように 流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし①-■|長谷川安造 #4 私は14年間の思い出多い、沼ノ沢を後に、昭和13年春、大夕張尋常高等小学校に転勤した。母、私たち夫婦と娘三人の六人で、青年団員や父兄、教え子に見送られ、大夕張の地に移住した。 沼ノ沢の教え子たちと、青年団員は、新築炭住の私の引越し先まで来てくれ、手伝ってくれたものだ。嬉しい志に感謝。 昭和13… 続きを読む