街の行事 山神祭 神社下 昭和40年頃、6月の山神祭。 神輿渡御行列の先頭。 山神社の参道入り口の門が後ろに見える。 お祭りの際、どのような順番で行列を組むのか、その仕来りなど良く知らないが、写真では先導するのは、神社の宮司と、山神社の氏子総代である礦業所関係の面々といったところだろうか。 背景には、テニスコートからスキ… 続きを読む
思い出ばなし 消えた缶ビール|久々湊真一 本州に来て暫く経ったある日、 『寒さに対する自分の感覚が、内地の人と多少違う』 ということに気がつきました。 内地の人は氷点下になると、全部「寒い」の一言になってしまって 「どのぐらい寒いのか(寒さの程度)」 をあまり区別していないようです。 私は、例えば氷点下5℃と氷点下20℃の違い… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 色付きの夢 | 高橋正朝 #136 色付きの夢を見たのは、鹿島東小学校4年生の初夏のころだったと思う。 1ヶ月ぐらいの間に2回見た。 それ以前も以後も色付きの夢は見ていない。 内容は2回ともほぼ同じである。 背中にマントをはおった私が空を飛んでいるのだ。 太陽は黄色。 空は青色。 マントは赤色。 身体の… 続きを読む
思い出の街角 大夕張商店街 冬 1996 平成8年(1996年)12月10日の大夕張郵便局から商店街にかけて。 母、祖父母が千年町に住んでいたという投稿名「まゆゆ」さんが投稿された写真から。 まゆゆさんの投稿は、次のページのコメント欄から。 https://ooyubari.com/2020/01/30/s433titosema… 続きを読む
思い出の街角 大夕張駅冬 1996 平成8年(1996年)12月10日の大夕張駅。 母、祖父母が千年町に住んでいたという投稿名「まゆゆ」さんが投稿された写真から。 冬の旧大夕張駅駅舎。 まゆゆさんの投稿は、次のページのコメント欄から。 https://ooyubari.com/2020/01/30/s433titosemati… 続きを読む
絵葉書 山神社ヨリ富士見町社宅地帯ヲ眺ム (其ノ三) 昭和15年(1940年)頃の大夕張の富士見町方面を撮影した写真に着色してカラー化した。 ここに見える啓心寮の住所を(其ノ一)で、3丁目と書いた。 先日、父の戸籍を見る機会があった。 それによると、昭和29年に結婚するまで住んでいた住所が「富士見町三区」と記載があった。 独身時代、啓心寮… 続きを読む
絵葉書 山神社ヨリ富士見町社宅地帯ヲ眺ム (其ノ二) 古書店で入手した絵葉書には、文面を墨で消したりしているものもあるが、この絵葉書には、幸いなことに、当時の文章がそのまま残っていた。 日常的な何気ない文章に、当時の大夕張での暮らしを感じる。 昭和15年(1940年)8月の葉書。 今から83年前の大夕張の生活。 樺太名好… 続きを読む
絵葉書 山神社ヨリ富士見町社宅地帯ヲ眺ム (其ノ一) 絵葉書の宛先の面には、昭和15年8月15日の消印がある。 タイトル通り、1940年頃の大夕張山神社から富士見町方面を俯瞰した写真。 タイトルに(其ノ一)とつけた。 これは絵葉書の本来のタイトルにはない。 この『山神社ヨリ富士見町社宅地帯ヲ眺ム』の絵葉書の記事を(其ノ一)から(其ノ三)… 続きを読む
楽しかった日々 明石町14丁目 昭和45年頃。 明石町は、シューパロ川に近い1丁目から順番に、明石町駅近くの15丁目まで炭鉱住宅がきれいに建ち並んでいた。 ここは、14丁目の住宅そば。明石町駅に近い住宅の一角。右手後ろに共同水道の小屋。 休日なのだろう、屋根には日の丸が掲げられている。何を食べているのだろうか、袋入りのアイ… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 夢とデータ解釈 | 高橋正朝 #135 〘 夢 〙といっても、「 オレは○○になる 」「 私は✕✕になりたい 」の希望や憧れの〘 夢 〙ではなく、寝てるときに見る〘 夢 〙のことである。 内容は覚えていないが、鹿島東小学校2年生ぐらいのときから〘 夢 〙を見ていたことは覚えている。 内容を覚えていないのに、何で小学校2年… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和32年度 鹿島東小学校終業式 昭和33年3月 鹿島東小学校体育館で行われた終業式。 下の久々湊さんのコメントにあるように、小学校の体育館らしく『勉学』の文字が右から書かれ、壁面に掲示されている。 同時期、鹿島小学校の体育館には、『不断努力』の文字が掲げられていた。 昭和32年度の鹿島小学校の卒業式の写真を見るとそれを… 続きを読む
思い出の街角 鹿島橋 旧橋の跡 かつて『ふるさと大夕張』の写真掲示板に投稿された、「常盤町に渡る手前の千年町側から」の写真だ。 投稿してくれた方の名前もデータもなくなり、わからなくなってしまった。 鹿島中学校への登校途中、鹿島橋の上から旧橋の橋脚の土台を左手に見ながら歩いた記憶はある。 「ああ、昔の橋のあ… 続きを読む
写真 水仙の芽 3月になって、暖気に雪が溶け始めた。 このまま雪がとけることはないと思いながらも、これからは雪が降っても、もう積ることはないだろうと思う。 気がついたら、庭先に水仙の芽が出ていた。土の温度が上がると芽をだすという。 「水温む(みずぬるむ)」という言葉を思い出す。 「水ぬるむ春三月」とは、この… 続きを読む
絵画 鹿島小学校 校章のデザイン ~祖父のスケッチ帖から~ 昭和53年(1978年)9月鹿島小学校発行の郷土誌『鹿島のあゆみ』には、昭和25年に制定された鹿島小学校の校章について、次のように書かれている。 昭和43年8月28日元教頭長谷川安造氏より聞く はじめに校章について校下の全域より募集したが、余りよい図案がなく、当時の先生方が相談し原図は長谷川安… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 雪の中をこいで山小屋にたどり着く | 高橋正朝 #134 今から約65年ぐらい前の春先、そう今ごろの日曜日、私を含む3人で、雪の中をこいで桜が丘から山のほうに入った。 このときも、誰々と行ったのか、覚えていない。 多分、全員、明石町番外地の少年だったろうと思う。 季節は違うものの、続・大夕張つれづれ #119 〘 スモモ 〙に書いたこ… 続きを読む
あらかると 大夕張の企業『北菱産業株式会社 鹿島炭礦』(昭和36年 夕張市の企業と名士録から) 鹿島炭鉱全景 【所在地】 夕張市南部二三番地 【代表者】 田中剛一 【資本金】 一千万円 古賀鉱長 【主たる役員】 取締役社長 田中 剛一 同 常務 古賀 秀雄 同 中村 隆吉 【会社設立年月日】 昭和27年6月15日 北菱鹿島事務所 【事業所】 夕張 = 鹿島炭鉱、香取炭… 続きを読む
白地図 白地図(昭和33年) 弥生町・春日町・代々木町 昭和33年の資料をもとに作成した白地図。 春日町では、直心アパート、清明寮が描かれる。 人出が足りなかった時代、鉱員が全国各地から集められ、単身者を収容した『◯◯寮』が、大夕張の各町内に建てられていたという。 後に妻帯者が入居するようになり、アパートや、◯◯荘となるなど名称を、寮はそ… 続きを読む
思い出の街角 代々木町から春日町へ -直心の坂- 大夕張駅前から駅前通りを緩やかに下り、そこから春日町に行くには、大きくいうと二つの方法があった。 弥生町側から入ると春日南、代々木町側から入ると春日北にでた。 下の地図に書き込んだのはその道である。弥生町側にはさらに二つの道がある。 小学生の頃、春日町の同級生のところに遊びに出か… 続きを読む
あらかると 大夕張の企業 三菱大夕張礦業所 (昭和36年 夕張市の企業と名士録から) (大夕張礦業所) 【位 置】 三菱大夕張礦業所は国鉄清水沢駅より、北に17.5キロ離れた鹿島一番地にあり、夕張川の上流海抜319メートル、やや平坦な地形をなしている。 【沿 革】 同鉱の発端は、明治31年であるが、同39年現在の南部に事務所を置き、京都合資会社が開発に着手した。 大正… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 座席をゆずる| 高橋正朝 #133 私の母親のすぐ下の妹、すなわち叔母が、当時住んでいた栄町から、明石町番外地の我が家に、赤ん坊を負ぶってよく遊びにきていた。 あるとき、赤ん坊を負ぶった叔母が、汽車に乗ったとき、北沢先生に席をゆずられ、大変感激したことがあった。 私が、鹿島東小学校4年生の初夏のころだっ… 続きを読む