学び舎の思い出 昭和26年鹿島小学校から児童とともに鹿島東小学校に移動した先生たち 昭和26年鹿島小学校から児童と共に鹿島東小学校に移動した教師(鹿島東閉校記念誌s53) 白黒写真に着色した画像 昭和26年鹿島小から移動した先生方【飯田雅人】 男姓8名、女姓6名の計14名の先生。鹿島東閉校記念誌や、鹿島小の記念誌などの職員の名簿から、お名前を調べたのですが、それらの冊子では、移… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 雪の降る夜の大夕張|高橋正朝 #71 H という男性に出遭ったのは、私がリビアから帰国してから、3〜4ヶ月した春のことである。 だから、38年前にさかのぼる。 私が所属していた会社が、私を、ある商社に出向させた。 その商社の本社に行って担当者に会ったのは、そのとき1度だけだった。 その後は、その商社が一部分賃借し… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和26年鹿島東小学校 千年町、シューパロ川そばにあった鹿島東小学校。 昭和26年、開校。木造校舎2階建。鹿島小学校の児童数増加により分離。 千年町、常盤町、明石町、鹿島開拓の児童が、当時13名の教職員とともに鹿島小学校より移動した。 児童たちは、自分たちが使う机や椅子を背負い、教師に引率されて移動したという。 当時を… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 9201 9201 北部移転当初の昭和4年から昭和38年まで、活躍を続けた蒸気機関車。 白黒写真に着色した画像 昭和35年大夕張炭山 入替えに活躍した9201号と9237号 【奥山道紀】 9200形機関車は,昭和4年専用鉄道の北部延長,自営運転開始に合わせて美唄鉄道より譲受ました。 以来,「920… 続きを読む
思い出ばなし 教会のクリスマス |千古のみどり 河村先生のステンドグラス 教会の行事があるごとに、河村先生は、色とりどりのセロファンを型どって、教会の窓硝子に貼り付け私達に、ステンドグラスとはこんなものなのかと見せてくれました。 作業は決して人に見せないで、夜中にこっそり仕上げて、私達を驚かせ、喜ばせてくれました。 キャロリング クリ… 続きを読む
思い出ばなし 雪の思い出|上村正樹 雪で思い出すのは、鹿島中を卒業してから高校入学式までの間、除雪のバイトに行った事。 確か日当が600円だったように記憶しています。 他にバイトなんて無かったと思います。 昭和45年の高校入試は大雪で、交通機関がストップして、試験が延期になりました。 東高の行事で雪祭りがあり、製作中に崩れて下敷きに… 続きを読む
絵画 祖父のスケッチ帖 祖父長谷川安造が沼ノ沢から大夕張の尋常小学校に赴任したのは、昭和13年春のこと。 34才の働き盛りの家族五人を抱えての引越しだった。 祖父は、絵を描くことが好きだったようだ。 秋の冷え込む頃に写生に歩き、土手や山野に腰をおろしてスケッチしていたため、肛門を悪くし入院し手術したという。 退職してからも… 続きを読む
写真 千年町バス通りの鹿|高橋歌子 2010年6月、千年町のバス道路。 織田商店の前辺り 向かいにお寺(願正寺)が見えた。 道の両側には、千年町の商店街が見えた。 右手に織田商店。 今でも眼を閉じるとその光景がうかぶ。 当時は何もないと思っていましたが、木の電柱がここに街があったのだと教えてくれるようです。 新たに大夕張の住民になった… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 冬のバスと車掌さん 1965年(昭和40年)頃 冬の三菱バス大夕張営業所前で撮影された写真だろうか。 中扉の旧塗装は、千年町のいとこの家に行くときにいつもこれに乗っていた。 馴染み深い車体だ。 扉の足下についていた『クレハ』のロゴもなぜか覚えている。 車掌さんのパーマヘアもなつかしい。 この頃、こういうヘアスタイル… 続きを読む
随想 土屋先生|成松泰彦 『2001年10月28日 私のふるさと物語』 昨日のロケで鹿島小学校グランドに行ってまいりま した。 終日、夕張岳が僕らを雨から守ってくれ顔を出してくれていました。 お祭りの時に、でみせが出店していたように体育館の下の道端には久しぶりに車・ 車・車・・久しぶりに賑わった大夕張。その数100名。 そし… 続きを読む
炭鉱とともに 昭和48年 スナック『しのぶ』と味の店『はるみ』 この年、1973年(昭和48年)4月19日に会社から閉山提案。 世帯数3246のうち、商店、2百数十世帯が、炭鉱とともに生活してきた。 町全体の存亡の危機の中、商店も5月28日に行なわれた炭労のゼネストに参加したという。 閉山阻止の運動もむなしく、8月大夕張炭鉱は閉山となった。 写真は、岳富町商… 続きを読む
随想 幼き記憶の大夕張|三浦浩信 私は、昭和39年に、代々木アパートというところで生まれました。 祖母は当時 "たつみ" という焼き鳥屋を経営しており、私は、祖母の家に幼い頃しばらく滞在していた記憶があります。 母は男1人・女2人の3人兄妹の長女で、旧姓「山田秀代」と言います。 私の記憶の中に、今でも当時の事で憶えて… 続きを読む
楽しかった日々 窓の除雪 昭和40年頃、富士見町6丁目。 一番山の高いところにあった住宅。 遠くに炭鉱病院と、栄、代々木の住宅がみえる。 家族総出で窓の外の雪を取り除き、広げる作業に励む。… 続きを読む
思い出ばなし 窓に迫る雪山|斎藤敏幸 栄町ブロックでも良く雪はねをしました。 雪をはねる場所がなくなると、段はねをするのですが、その度に向かいの棟の1階の窓に雪山が迫り、大変だったのではと、今頃痛切に思っています。 1階に住んでいる人たちは、雪山で外は見えないし、暗いし、早く春になって、雪が溶けるのを待っていたのでしょうね。 あんなに雪… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 農場前臨時乗降場 昭和30年頃 桜ヶ丘方面と行き来する乗降場であったのだろう。対岸の桜ヶ丘方面に行くには、尚、崖の道を下り、シューパロ川にかかる細いつり橋を渡らなくてはいけなかった。 写真を拡大すると、制帽をかぶった鉄道員らしき人物や乗降する複数の人が見える。 白黒写真に着色した画像 後のシューパロ湖駅より… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 新型コロナのワクチン接種 | 高橋正朝 #70 一昨日( 2021年12月16日 )に、第2回目の新型コロナワクチンの接種をしてきた。 接種会場は、BKK のバンスーという駅である。 新しい駅で、まだ開業していない。 だからこそ、ワクチンの接種会場にしたのだろう。 BKK から、タイの東北地方への玄関口になる。 広さは、上野駅、新宿… 続きを読む
思い出の街角 3号つり橋から橋を渡る列車 昭和30年頃 桜ヶ岡から、シューパロ川にかかる『3号つり橋』の上からちょうど、列車が大夕張方向に向かってやってきた。 目の前に見えるのは、五十鈴沢橋だろう。 大夕張ダムによるシューパロ湖が生まれる前の様子。 昭和32年まであった『農場前臨時乗降場』に続いたという崖の道も見えている。 白黒写真に着… 続きを読む
随想 ドカ雪 |ziny 空を、上を、見あげて 電信柱に降る雪は、いつまでもきれいに降る雪でした。 (周りは闇) (80ワット?オレンジ色の電球に降る雪) (体感温度、マイナス13度かな。鼻が紅く、少しふっつく。) ただ、・・・白いものが・・雪が降っていました。 とけて、煤をうけてくろくなる・・・当然・・・生活の色でした… 続きを読む
あらかると 大夕張鉄道 沢と橋(山史から) 1号の沢鶯 沢2号の沢吉 野 沢3号の沢五 十 鈴 沢4号の沢香 椎 沢8号の沢明 石 沢5号の沢旭 沢6号の沢竜 田 沢7号の沢宝 沢名 取 沢初 音 沢昭和2年11月4日名称を付す 明石沢は、当初暗渠布設の予定だったが、これを橋梁に変更したため、… 続きを読む
思い出ばなし 宝町の標語塔 | 湯浅純人 わが故郷大夕張・・・。 駆け回った野山、泳いだ川、遅くまで遊んでいてよく親に家から出されたっけ。 生まれてから中学校を卒業するまで住んでいた大夕張は、私にとっての原風景です。 ところで宝町の岳富町に下りていく所の広場にあった、 「子は宝 錦のこころ 千年まで」 という標語が書いてある塔(… 続きを読む