昭和40年

明石町の歴史 あらかると

明石町の歴史

     明石町の辺りは以前は、戦前は農場と呼ばれ、その後、第一農場とよばれていた(第二農場は、桜ヶ丘対岸→大夕張ダムで水没)と呼ばれていた。    このあたりには、戦争前後の話として、畑地として土地をかり、笹刈りから、大根の種まき、収穫まで家族総出で荒地開墾をしながら、食料を得ていたという祖父の話…
明石町駅 思い出の街角

明石町駅

昭和40年頃、明石町駅駅舎 高橋さんが、『続大夕張つれづれ#105 明石町駅の待合室』でこの写真を見て次のように書いた。 写真の左右にある立木はポプラである。 右側のポプラのある場所には花壇があり、ヒマワリやスミレなどが植えられていた。 私は動植物には興味がないせいか、他の花についてはあまり記憶にな…
富士見町6丁目の記憶 思い出の街角

富士見町6丁目の記憶

   昭和40年(1965年)頃 富士見町  私が富士見町6丁目に住んでいたのは小学校入学前あたりから,小学校3年生の頃まで。  鹿島小学校から帰る時は、校門を出て大夕張鉄道沿いの道を歩き、そこから山の方の坂道を上った。  反対に、鹿島小学校に行くには、そこから4丁目のあたりまで坂道になっていた。鉱…
桜荘の庭 思い出の街角

桜荘の庭

 千年町の鹿島東小学校のグラウンドを見下ろす場所に、桜荘、青葉荘が建っていた。    ここは、桜荘の庭。  小さな池に向かって一心に遊んでいる一人の少女。  その向こう、遠くに見えるおばさんのいる道路を下っていくと、東小学校だった。  中学校行のバスも走った、舗装の途切れたあたりの道路。     道…
選炭場 炭鉱とともに

選炭場

昭和40年代と思われる。三菱大夕張炭礦選炭場。 石炭の積込みには、ベルトコンベアについている秤で、炭の量が分かり、1台に積む石炭の量は、常に同じしくみになっていたという。   大夕張炭山 選炭場『大夕張炭労 解散記念誌(s47)所収』…
栄町2丁目~3丁目の通り 思い出の街角

栄町2丁目~3丁目の通り

 昭和43年頃、冬の栄町。  栄町2丁目と3丁目の間の通り。  後ろに炭砿病院。その向こうに礦業所のズリ山が写っている。  軒先に長い氷柱が下がるような寒さが続く日々の中で、ときおり訪れる穏やかな一日。  頬も凍らすような冷たい空気があたりを覆っているようだ。      白黒写真に着色した画像…
富士見町6丁目から 思い出の街角

富士見町6丁目から

昭和40年頃、富士見町6丁目の山から鹿島小学校方面をみる。 清水の遊び場  富士見町6丁目は住宅のどんづまり、礦業所のすぐそばという印象がある。住んでいた家の裏手には山が迫り、小学校低学年から中学年にかけて、春夏秋冬ここが遊び場だった時がある。 この写真の真ん中、住宅と山の境目に小さな坂が見える。 …
メタノール工場とポンプ場 思い出の街角

メタノール工場とポンプ場

 メタノール工場には、同級生の菊池くん(トシボーと呼んでいた)のお父さんが勤めていた。  近所に住んでいたこともあり、家族ぐるみで仲よくさせてもらっていた。よく父や母と、ご夫婦の故郷である四国の話をしていた。トシボーとは、中学校を卒業以来会っていないが、年賀状のやり取りは今も続いている。  遠足や遊…
湖畔の道路とジープ 思い出の街角

湖畔の道路とジープ

昭和40年頃?舗装化される前の鹿島道路。明石町から南部の間、昭和37年に開通したとはいえ、舗装道路になったのはずっと後のことだ。 明石町の郊外?自動車と併走するSLの走行写真で、よくみるような場所だ。 大夕張方面に向かって走る三菱・ジープ。 ジープ型の車両は、大夕張でよく見かけたタイプだ。   この…
冬のバスと車掌さん  運んだ、石炭を人を

冬のバスと車掌さん 

1965年(昭和40年)頃 冬の三菱バス大夕張営業所前で撮影された写真だろうか。 中扉の旧塗装は、千年町のいとこの家に行くときにいつもこれに乗っていた。 馴染み深い車体だ。 扉の足下についていた『クレハ』のロゴもなぜか覚えている。   車掌さんのパーマヘアもなつかしい。 この頃、こういうヘアスタイル…
窓の除雪 楽しかった日々

窓の除雪

昭和40年頃、富士見町6丁目。 一番山の高いところにあった住宅。 遠くに炭鉱病院と、栄、代々木の住宅がみえる。 家族総出で窓の外の雪を取り除き、広げる作業に励む。…
冬の栄町ブロック 思い出の街角

冬の栄町ブロック

昭和40年頃、雪に埋もれる栄町アパート。下の、ピリカおじさんの回想によると、栄町1丁目~2丁目の4棟だろうか(健保会館前庭の向かいあたり)。向かいのブロックの窓から身を乗り出して撮った写真と思われる。前岳の裾の方がなんとかうつっている・・・。   深い雪におおわれた、とびきり日差しが強くて、雪光の反…