鹿島東小学校1年生|高橋正朝 #1

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 私が鹿島東小学校1年生のときの担任は、長谷川ヒロコ先生でした。

 飯田さんがスマホ用に編集転載した、「 大夕張つれづれ #18 」にその原文が載っています。 

 したがって、ここに書き込んだ内容は、一部その原文と重複します。それに、飯田さんとやり取りしたメールの一部を書き加えました。

 最初の PC 版の「 ふるさと大夕張 」に書き込んだとき、「 長谷川 」先生のことを知っている、と私に知らせてくれた同学年の人がいました。 東小学校4〜6年生のときの別のクラスの担任だったというのです。

 ハテ ?

 私の東小学校4〜6年生の3年間は、学年生徒のクラス替えがなく、私はずっと菊組で、最初の2年間は、女性の北沢先生でした。 6年生になる前の春休みの時期に、鹿島中学校に転任しました。 6年生のときは、鹿島小学校から転任してきた庭田和子先生でした。

 当時の我々団塊世代の鹿島東小学校は、松組、竹組、梅組、桜組、そして菊組の5クラスでした。

 我々の高学年での3年間はクラス替えはなく、隣の教室の桜組の担任は前田ジッコ先生の子息であった前田先生。  松組の担任は男性の片山先生。 竹組であったか梅組であったか、今では記憶がボケてしまいましたが、山本晴一先生、そして女性の長谷川先生。

 長谷川先生のことで私に連絡してきた人は、同姓だったので勘違いをしたのです。   
この人、オッチョコチョイでね••••••。 「 大夕張つれづれ #5 」のほとんど最後の部分で触れていますが、札幌市内に住んでいるにも関わらず、私を連れて、台風の雨のなか、会合をもつ予定の居酒屋を目差して狸小路の反対方向に歩いたりアサッテの方向に歩いたりして、 「 だって、私は札幌のイナカ者だもん 。ハハハ 」 なんてのたまう御仁デス。 でも憎めないんだよなぁ。 アッケラカンとして朗らかで。   

 私のメルアドに、2020/4/29 付けの飯田さんのメールが飛び込んできました。 「 ふるさと大夕張 」に投稿した私のモノを、スマホ用に編集転載するについて、メールで私に許可を求めてきました。 即座にOK 。 随分律儀な人だなぁと、ちょっと驚きましました。

 もっと驚いたのは、飯田さんが編集後記として、【『 大夕張つれづれ  』転載完了しました 】 にも書き込んでいましたが、長谷川ヒロコ先生が、飯田さんの叔母さんだったことでした。

 飯田さんのメールに添付されていた写真は、まさしく、私が記憶していた、カワイイ感じの長谷川ヒロコ先生でした。 「 ふるさと大夕張 」に載っていた東小学校教師時代の写真よりも、飯田さんのメールに添付されていた写真のほうがホンモノにより近い。

 デキの悪い私でしたが、長谷川ヒロコ先生に、褒められたことを一つだけ覚えています。

 国語の時間、先生が、生徒に、教科書を読み上げたい人を訊ねたとき、多数が挙手しましたが、私は手を挙げなかった。 デキが悪いから、間違うことを恐れたのと、当時の私は大変な引っ込み思案な子供でした。 授業中、挙手したことは一度もなかった。 それなのに、先生は、私に朗読させました。

 続いて、私の横の、細川という女子生徒に朗読させました。 二人の朗読後、先生は、大意、次のような意味のことを仰った。

「 ハイッハイッと手を挙げなかったのに、二人ともハッキリと間違いなく読んだ 」と、先生に褒められたのだ。

 親に一度も褒められたことなどなかったのに、これは子供心にとても嬉しかった。

 細川という女子生徒の苗字しか覚えていないが、鹿島東小学校のすぐ近くに住んでいた。 その子も私も、当時としては大柄なほうだった。 たしか、彼女の親は新聞集配所の仕事だったような記憶だが••••••。   

 彼女は、今、どこでどう過ごしているのだろうか ? 

 同級生には、しわがれ声で、もっとも大柄で、強烈な個性を周囲に振りまく男子生徒がいた。 その彼が、私の前の席で、その横が、高△ミ○子、といった。 彼女も鹿島東小学校のすぐ近くに住んでいた。

 休み時間、しわがれ声の同級生が、「 ミ○子チャ〜ン 」と言いながら、両手を広げて抱くような格好をするのだ。 高△ミ○子は、笑いながら、拒絶のため、身を竦めてもだえるのだが••••••。

 初めてこれを見たときはビックリした。 小学校一年生にしてすでにオヤジである。

 しわがれ声の彼と同級になったのは、このときだけである。 私のことなど覚えてはいないだろう。 彼は千年町に住み、私は明石町だったので、その後、クラスが違うことも相まって、交わることはなかった。

 彼の名誉のため付け加えますが、個性が強く、ユーモラスで、友人が多かった。

 飯田さんとのメールのやり取りでわかったことですが、長谷川ヒロコ先生は、そのしわがれ声の男子生徒のことは、よく覚えていたようです。 そりゃそうだ。 滅多に見ない個性の男児だったからネ。

 でも、上記の、しわがれ声の男子生徒の「 ミ○子チャ〜ン 」の逸話は知らんでしょうね、きっと。私のことは、おとなしい生徒ということで覚えていてくれてたらしいが、リップサービスかな ?

 本当に記憶していたとすれば、自分自身が学校を出てすぐに社会人となって教師になり、そこでマレに見るデキの悪い生徒に初めて出遭ったので、それが強く印象に残った、というのが的を得た解釈になりそうだが••••••。

 長谷川ヒロコ先生が、自分の両手の指を使って何ごとか教えてくれるのだが、さっぱり分からなかった。 たぶん、算数の引き算だったと思う。 妙なことに、内容が理解出来なかったのに、先生が一生懸命になって私に説明してくれている光景だけをいまだに覚えている。

 私に真剣に教えてくれている最中なのに、先生の髪( 型 )は、カアさんやオバさんたちに比べてカッコよくてカワイイなぁと、これまた大人びた余計な感想が、頭をよぎったこともいまだに覚えている。

 肝腎なことに精神集中せず、余計なことに関心を向けるという性格は、この頃すでに形成されていたようだ。

 飯田さんが送付してくれたメールに添付されていた写真には、まさしくその髪型の長谷川ヒロコ先生が鮮明に写ってました。可能なら、その写真、公開して欲しいなぁ••••••。

昭和30年頃 叔母長谷川ひろ子 (飯田)

(2020年9月7日記)


(筆者略歴)

昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


  

2件のコメント

  • 細川新聞店の写真。昭和43年の千年町の住宅地図にものっていました。

    細川新聞店・高田商店・大井商店と大きな店が並んでいました。

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