寺田ヒロオのマンガと読者~観客者の想像力~|高橋正朝 #2
私が鹿島東小学校2年生のとき、小学館の学習雑誌、「 小学2年生 」に掲載されていた、寺田ヒロオ のマンガの意味がわからず、悩んだ、と形容するほどでもなかったが、断続的に何十回も考え、ようやく東小学校4年生ぐらいのとき、理解できたものがあった。
このマンガ、小学2年生用だったのだが••••••。
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内容はこうだった。
海岸にある一軒家に、少年1人と祖父母が住んでいた。少年は、鬼退治を空想し、祖父母が止めるのもきかず、嵐の夜に1人で舟を漕いで海に出る。
やがて、とある海岸に到着し、向こうに火が灯った一軒家を見つける。そこに行ったら、祖父母に化けた鬼を見つける。祖父母は、孫が戻ってきたと大喜びした。
しかし、少年は、鬼が祖父母に化けたものと思い込み、祖父母をオモチャの刀で退治し、舟を漕いで意気揚々と引き揚る。家に戻ったら、怪我をした祖父母がいた。
要は、少年が漕いだ舟は、嵐で、出発した海岸から少しも外に出ず、出発地から出発地に戻ってきただけの話だった。
少年は、祖父母は鬼が化けたものだったとして、自分の間違いを、終始気づかなかった。
少年は、鬼を退治したものと自己満足した話••••••。
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このマンガのストーリーがまったく分からなかった。
私は、主人公の少年と同じで、舟を漕いでたどり着いた先にいた一軒家の祖父母は、鬼が化けたものだったと、信じ込んでしまったからだ。
少年が漕いでいた舟が、嵐で、出発地に戻されていたことが、マンガにハッキリと描かれていなかったからだと、思っている。
しかし、一から百まで全部描かれていなくても、読者は、描かれていなかった部分を、自分の想像で補う、ということをしなければならないとハッキリと気づくのは、東小学校の4年生ぐらいのことだった。
映画やテレビで、スリラーや推理じみた内容のとき、画面に犯人の手や足がでるのに、体全体が写しだされないシーンがあったりするが、それは、演出家は、観客の想像力をも期待するからだ。
マンガも、同様なわけだ。
質の悪い探偵小説や映画だと、追いかけられた犯人が高級住宅街の塀のある道路を曲ると、忽然と姿を消す場面があったりする。 結果、追跡者は、犯人を見失うのだ。
協和会館でみた映画で、題名そのものは忘れてしまったが、怪人二十面相を、追跡中の少年探偵団が、上記の高級住宅街の場面で見失ってしまうのだ。
明智小五郎役は、波島進。
怪人二十面相役は、小牧正英 だったか 伊藤雄之助 だったか、ハッキリ覚えていない。
映画の後半部で、謎解き場面があるのだが、怪人二十面相は、塀のある道路を曲ると、すぐに道路にあったマンホールの中に身を隠すのだ。
怪人二十面相が道路から消える場面には、マンホールのことは出てなかったと思う。 出てたとしても、謎解きのアリバイ作りとして、2〜3秒間ぐらいのものだったと思う。
明智小五郎役の、波島進 のことは覚えているので、映画の配給は東映だったと思う。
ずいぶんいい加減な演出だなぁ、と思った。 子どもの時分だったので、脚本が悪かったのか、演出が悪かったのかまでは判断がつかなかった。
この映画で、怪人二十面相がマンホールに姿を隠すのは、観客席にいた、私のストーリーの捉え方が悪かったのだろうか ? と、老人になった今でも思い出すことがある。
(2020年9月11日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。