汽車と競走した話|Kawauchi Masami
昭和40年ごろ、東京に旅行に行って速い電車に慣れて、大夕張鉄道に乗ったとき、遅くて 遅くて、なんだこれっと思ったものでした。清水沢〜遠幌間が、特に、遅かったと記憶しています。
小学校5年生の時、清水沢〜大夕張まで、汽車と24インチの自転車で競走した事が有りました。
いい戦いでした。
清水沢を出て、もうダメだ、と思っていたら、遠幌か南部の近くで、汽車が失速していたので、追いつきました。二度目に、もうダメだ、と思った時、汽車が南部で停車。上りの汽車を待っていました。
こうなると 元気が出て 自転車で抜き去りました。
次に難関だったのが、トンネルです。汽車は真っ直ぐ抜けて来るのに対し、道は大きく回りこみ、ダム近くのトンネルを抜けた所で、追いつかれました。
そうしたら、汽車の中から、高校生が声援してくれました。でも、じわ じわ 抜かれました。もうダメだ と思った時、今度は、明石町の駅で汽車が止まっていました。もう少しで、追いつきそうになった時、汽車の汽笛が聞こえました。
結局、私が岳富町に入った時、大夕張を発車する汽笛が聞こえました。私が大夕張に着いた時には、もう高校生はいませんでした。
着いて汗びしよりのランニングシャツを絞ったら、ジャー と言うくらいの、汗でした。
汽車と走って辛くて覚えているのは、白金に行く二股の所が、カーブで登り坂だったのと、そこを過ぎて、岩野のガソリンスタンドを過ぎた辺りから登り坂。過ぎて明石町駅まで下り坂。明石町駅を過ぎて、購買会辺りがゆるい登り坂。あとは岳富町が、すり鉢型の道で、他はほとんど、平でした。車だと 感じないかも。
でも、平らな道なのに汽車はなぜ、失速したんだろう? カーブだったのかな? それとも、早く南部駅に着いても上りのを待たなかったらダメだったのか?不思議ですね。
記憶にあるのは、下りの遠幌か南部の辺りで石炭は空で、軽いはずなのに、なぜか、遅かったです。
ところで、当時、大夕張から清水沢まで自転車で走った人、少ないと思います。
私は母の実家が、南清水沢なので、従兄弟がいたので何回か走っています。最高遠くは、千代田隧道をくぐって、あの峠を下まで、降った事あります。行きは、ペダルを漕がないで走れましたが、帰りが 酷い目に遭いました。
南清水沢で一泊して帰ったからいいものの、日帰りは出来ませんでした。 大夕張は、舗装してなかったのか、清水沢炭鉱過ぎた辺りから、舗装になっていて、多分、初めて見て 「これが 高速道路か」と、思ったものでした。
その頃、大夕張は、大夕張〜千年町までは、舗装していた様な気がします。 昭和36年ごろ一回舗装、失敗したのを覚えています。岳富町の坂、タールが多かったみたいで、自転車のタイヤに舗装がネッパって、すぐやり直したことが有りました。
(2020年9月22日記)
(筆者紹介)
昭和29年6月生まれ。三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務