花火で鉄砲を撃った話|Kawauchi Masami
花火の話ですが、昭和35年ごろ、すり花火とダイナマイトと言う爆発する花火が、有りました。すり花火はマッチ箱で、すって火をつけます。ダイナマイトは、道火線が付いていて、道火線にマッチで火をつける花火です。
すり花火は、マッチ箱のするところで、こすると火がつきます。そこに、缶詰の缶をかぶせると、電信柱の線の辺りまで、缶が飛びます。
その力を利用して、鉄砲を作りました。
テレビのアンテナの、ちょっと太いところを、外して片方を丸めながら折ります。アンテナは上のアルミ管の所は、破裂したとき、やぶけてしまいます。だから、アルミ管を支える斜めの、二本のパイプの内、一本を使います 。
片方を潰すのは、圧力を閉じ込める為です。ただし、巻く様に折らないと花火が爆発した時、開いてしまいます。
まず、すり花火に火をつけて、筒の中に入れます。鉄砲の玉は、「チビ」と呼んでいた、ビー玉の1番小さいものを使います。爆発まで少し時間があるので、ビー玉をそのあと入れて、的を狙います。
当たると一升瓶でも、割れます。ただ欠点が、一つ。下に向けると、ビー玉が落ちてしまいます。当時の花火は、すごい威力でした。
すり花火は、普通が1円で、一発2円というのも有りました。名前も『水爆』とか。でも昭和36年か37年ごろ、すり花火が 禁止になりました。
禁止の後に出たのは、威力の弱い、一回一回、マッチで火をつけるタイプでした。
今考えると、平気で危険な遊び、してました。普通にナイフやナタ、持って 山に行ってましたね。
(2020年9月25日 記)
(筆者紹介)
昭和29年6月生まれ。三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務