大夕張春夏秋冬|Kawauchi Masami
春
雪が解けて、道の端っこに、冬の間、犬がした糞が出てきます。
中学の通学のとき、突っぱねを上げない様に歩くのですが、それでもズボンの後ろに、跳ね上がった泥を付けてしまいました。
小学生の頃、雪が解けて道が乾き始めると、自転車に乗るのが楽しみでしたね。雑草は黄色い芽を付け、水仙の花が早めに咲きました。
外が乾くと、釘刺しや、けんぱ、縄跳びや、かけ石で地面にいっぱい絵を描きましたね。あと 何が有ったろうね。
夏
夏は、なんと言っても磯次郎で、ヤスと水中メガネを使って、魚取り。
こんな事が有りました。
小学校1年生の時、みんな栄町のプールへ行ってました。私は海水パンツが無く、行けませんでした。
そして 思いついたのが手拭いを、2本持ってきて、1本をベルトの様に腹に横に縛り、もう1本を縦に渡して 褌を作りプールで泳ぎました。
そこまでは、よかったのですが、 その日、多分、暑い1日だったのでしょう。新聞社の取材が来てまして、私の褌姿の写真を撮られたみたいです。
次の日、母親が笑いながら、私に新聞を見せてくれました。褌姿も笑えますが、なんと褌の横から、チンチンが、出ていたのです。昭和36年の夏、多分、道新だったと思います。新聞社で探せば有るかもしれません。
夏の遊び。
女の子はタンポポや、白いクローバーの花で 花輪を作っていましたね。私も編みましたが、最後輪っかにしてからの止め方、知りませんでした。
女の子の遊びって、縄跳びかな。スカートの裾を、パンツに挟んで、飛んでましたね。
男の子は、私は春日町で、川が近かったので、小さい時は、2人で手拭い持って川の石の所に入れて、足で魚を追って、2人で手拭いを上げて、魚をすくっていました。
少し大きくなると、釣りをしました。初めて釣った魚は、カジカでした。まだ、浮きを買える時代では無く 餌を付けた針を川に投げ、テグスの繋がった竿を、少し大きな石で押さえて置いて、ジ〜ッと竿の先を見て、魚が掛かるのを見ていました。
相撲もしましたね。
各町内会で、相撲大会有りました。春日町は土俵が有りました。春日町の北と南の間に盛り土して、丸く俵も有りました。他の町も有ったのでしようが、覚えていません。
秋
9月、 山にキノコが出始めます。
私が初めて採ったキノコはボリボリでした 中学生と一緒に、山へ行き、キノコを見つけました。
長さ3m直径80cmぐらいの、苔の生えた腐った木に、花が咲いている様に、びっしりキノコが生っていました。すると中学生が、ここのキノコ、全部食えると、教えてくれました。それが『ボリボリ』で、他のキノコは見えませんでした。
このキノコの匂いが、凄く良くて、『山の匂い』という感じで、私は初めの頃、匂いでボリボリを、嗅ぎ分けました。何故かボリボリの中に、違うキノコは有りませんでした。
小桑(コクワ)もよく採りました。未だ熟していない小桑でも、採ってきました。すると、友達が、米に埋めておくと 熟すよと、教えてくれました。私は大きい入れ物に、熟してない小桑を入れ、そこに一升ぐらいの米を入れ、戸棚にしまいました。1か月ぐらいして、母親が戸棚に有った入れ物を見て、「なんだ これ」と、叫びました。そうです入れた私が忘れていました。そこには、吐き気を催すようなカビが、吹き出ているようでした。
私は、大量の米が入っいるのを 隠すため、家の前の畑に埋めた事が有りました。
あと、山ぶどうも、よく採りました。
カラ松(落葉)に生っているぶどうが甘く、霜が降りた後のぶどうは、いっそう甘くなりました。よく焼酎の瓶に入れて、葡萄酒を作りましたが、味は覚えていません。
10月に入ると、雪虫の事を思い出します。
冬が近くなったと、自覚しました。自転車に乗ると前が真っ白になりました。今でも大夕張は、あの大量の雪虫が、いるんでしょうか、今の札幌あまり見ないです。
どこの家でも大根、樽で洗って干しましたね。軍手をはいて、洗うのを手つだいました。今考えると、外で、冷たい水で、よく洗えたな、っと思います。
色々な漬け物が、有りました。昔の人は、よく忘れないで覚えていましたね。
覚えていると言えば、昔の人は民謡を、また民謡の歌詞をよく覚えたな、っと思います。家の親父は字も書けませんでしたが、民謡が大好きで、よく歌っていました。レコードもCDも無い時代、民謡をどうやって覚えたのか、不思議です。親父は酒も飲まないので、そういう場所にも行ってないと思うのです。ラジオも無かったと思います。
このあいだ、朝、犬と散歩をしていて、懐かしく思えたのが、 雑草に霜が降りた光景。
道の水溜りも凍っていて、小学校の通学の時、足で破りながら通学した、雪の降る前の事思い出しました。
雪虫が終わって、いよいよ、冬が来ます。
冬
一面、雪で真白になった朝、人が歩いた足跡を、合わす様にたどって歩き、何人も通ると一本道が出来ます。前から人が来ると、その場の雪を踏みつけて、交差しながら学校へ通いました。
学校の帰り道、馬ソリが、歩いていると近づいていきました。すると、馬車のおじさんが、「ボク、乗ってもいいよ」って言ってくれました。荷台の高さは40cmぐらいだったでしょうか?
2〜3年生ぐらいの私が、飛び乗って座れる高さでした。
当時、乗り物がバスぐらいしか無く、すごく嬉しかったのを覚えています。
正月近くになると どこの家でも 餅つきの音が聞こえてきます。
近くで聞こえると、お餅のお裾分けを期待しました。私が覚えているのは、バケツ二つに、もち米を3日ぐらいうるかして置いて、セイロが二つあって、重ねて蒸していました。
1日に、6臼ぐらいついていた様に思いました。
毎年、その時しか使わない『のし板』に、でんぷんをまいて、餅がつかない様にして出来た餅を置き、でんぷんを撒きながら、長い丸い棒で、伸ばして行きました。
出来上がると、新聞を広げた所に移動して、一晩おいたと思いました。
次の日それを四角く切って、家では、お茶箱に入れて保存しました。つきたての餅は、固まる前に、納豆餅やあんこ餅を作りました。
あんこ餅の『あんこ』の事ですが、母親が餅つきの数日前、あづきを煮て、あんこを作っていました。
煮えくりかえったあんこ、冷めたら食べようと、思っていました。母親に見つからない様に、あんこが冷めた頃、人差し指を、あんこに突っ込みました。
ラッキー!冷めてました。あの、あんこの甘いものと信じて、口に運ぶと、オェーッ 甘く無い
あとで、母親に聞くと、「砂糖入れるの、忘れてた」との事。砂糖の入っていないあんこの不味さ、はっきり今でも覚えています。
正月過ぎると、昼ご飯は餅でした。私たち3人兄弟で、私は2つ、兄達は3つと聞くと、物置きに行き、持って来るのですが、これが大変で、ガチガチに凍っています。
家では、刄の無い包丁が置いてあって、隙間に刺して、一枚づつ取りました。
ストーブで焼いて、定番はやっぱり砂糖醤油。お湯をちょっと入れて、柔らかめにして食べました。きな粉餅も食べましたが、お湯に入れたり、手間がかかるので、砂糖醤油が多かったです。
(2020年11月25日 記)
(筆者紹介)
昭和29年6月生まれ三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務