札幌にあった三菱の宿泊施設 その3
札幌市中央区北2条東6丁目、大型商業施設の隣りに三菱鉱業が所有していた、旧永山邸がある。
永山邸は、明治10年代に建築された永山武四郎の私邸。
1911年(明治44年)に三菱が買収し、事務所として使用、1937年(昭和12年)に北1条通りに面した北側部分を新築した。旧永山邸部分は本社重役等の接待用の貴賓室として、増設部分は寮として使用されたという。
昭和60年には、三菱から札幌市に移管され、現在、文化財として保存され内部が公開されている。
北側部分は、寮の部屋の様子が再現され、一階には喫茶室が併設されている。
以前、解説のスタッフの方から、わかりやすく説明を聞かせてもらったことがあり、先日、『札幌市内の三菱鉱業の宿泊施設』について何か話を聞けたらと思い足を運んだ。
そして、スタッフの方に、昭和40年代大夕張から札幌の三菱の寮に泊まった自分の話を交えながら、かつて札幌市内にあった三菱鉱業の宿泊施設について何か手がかりになるようなものはないか、尋ねてみた。
結果からいうと、市内に三菱鉱業の所有する様々な施設財産が数多くあったらしいが、札幌市に移管されるにあたって、資料その他記録が残っていない、わからないことがほとんだだという。
むしろ、訪ねてきて昔のことを語る人たちの記憶によってわかることも多いという。
話を聞いた中でも印象的だったのは、ここ『三菱鉱業寮』では、
・大夕張、芦別など道内の三菱経営の各鉱山や炭鉱の所長さんたちが月一回ほど集まり会議がおこなわれていた
・その際の宿泊の場であったり、会食の場として使われたていた
という。
いわゆる幹部たち『お偉いさん達』専用かと、ふと思ったが、スタッフの方と話しているうちに、こんな話も聞いた。
・とある道立高校の退職校長が、『中学生の頃高校受験のために、ここに泊まって試験を受けに行った』と懐かしそうに話していた
来訪者の中には、実際にここに泊まったことがあるという話をしていく方もいるという。その例として上の退職校長の話をしてくれた。年齢的には、自分と同じか、少し上の年代だろう。
そういう話を聞くと、道内の三菱の各炭鉱の関係者の子弟たちが、宿泊したこともあったようだ。
スタッフの方の話を聞きながら、『立つ鳥跡を濁さず』という言葉がうかんだ。
三菱の商売の仕方についてそういう話を聞いたことがあった。撤退するときには、きれいさっぱり何も残さなかったという。
結局わかったことは、私やみなさんの頭の中にだけは、かつて三菱が所有していた寮・宿泊施設が確かに存在していたということだった。