幼き記憶の大夕張|三浦浩信
私は、昭和39年に、代々木アパートというところで生まれました。
祖母は当時 ”たつみ“ という焼き鳥屋を経営しており、私は、祖母の家に幼い頃しばらく滞在していた記憶があります。
母は男1人・女2人の3人兄妹の長女で、旧姓「山田秀代」と言います。
私の記憶の中に、今でも当時の事で憶えていることがあります。
①お風呂・・・街の両端に1軒ずつ・・ここで溺れました(笑)
②お肉屋さん・・2人の男性兄弟?・・一緒に遊んでいただきました
③おもちゃ屋・・2軒あったような・・紐引きやクジ引き・プラモデルも!
④バチンコ屋・・祖父が他界する前よく一緒に連れて行ってくれました
当時は玉を指ではじいて入れる方法の為、幼い私は、数個の玉を同時に入れ、はじけなくなりました(笑)
⑤ ”たつみ” のお客さん・・そんな私にディズニーのパチンコのおもちゃを買ってくれたお客様がいました
⑥つばめさんのお姉ちゃん?・・ちょっと離れたところに住んでいて、遊んでくれた記憶があります。
⑦♪シューパロ~に風渡り・・・♪
現在、私は岩見沢市で商売をしています。(これも祖母の血統でしょうか?)
母と祖母も岩見沢市に住んでおりますが、最近祖母が精神的に弱ってきているようで入院をしています。
また叔母である母の妹(久美子)も若くして他界してしまいました。
大夕張の事は幼き頃のことで、わずかな期間のことしか記憶に無いはずなのに、ついつい懐かしくて書いてしまいました・・・
なぜか懐かしく、なぜか涙が出てきそうになる事があります。
幼き頃の私が記憶した大夕張は、たくさんの暖かい人々の住む、活気に溢れたとても懐かしい場所。
当時は ”ひろちゃん” と呼ばれ、いろいろな人にお世話になったように思います。
長くなりましたが、最後にこの場をお借りして「大夕張ありがとう・・」
(2002年2月22日 記)
文中、焼き鳥の『たつみ』は、岳富町商店街にありました。
岳富町商店街の写真と昭和42年の住宅地図に載っています。
写真では『たつみ』の看板を、地図では、『山田』というお名前が見えます。
(下のページから見ることができます)
大夕張の少年達、御用達の『田村商店』(玩具)の右隣3軒目にありました。
_
中学校時代,よく岳富町を通り,当時は道路の両側に歩道もありましたが,歩く時はいつも商店の店先の方を通りました。
線路の土手下側の歩道は歩いた印象がありません。商店街は間口がけっこう狭くたくさんの店がありました。
そんな店のいろんな看板や暖簾を,”ウォッチング”するのが楽しかったような気がします。
_
岳富町の坂底からの宝町側は,飲食店が多く,夕方ともなると,店先に暖簾が下がり,少しあけられた戸口から,いいにおいをさせていて,自分はすかせたお腹を鳴らして家路をいそいだものでした。
_
そんな記憶の中に焼き鳥の『たつみ』はありました。
この通りを何度行き来したことだろう。
「武田の自転車、小原楽器、模型の田村」以外は、大人の世界だったなあ。
↓