炭鉱病院の病室で聴いた大相撲のラジオ放送 |高橋正朝 #187
私が鹿島東小学校の4年生のとき、急性盲腸炎になり、炭鉱病院に入院して手術した。
手術後の経過は順調で、入院期間は、たぶん10日間ぐらいだったように思う。
昭和33年の5月の中旬のころだった。
父親が、その少し前に、当時売り出されたポータブルトランジスタラジオを病室に持ってきた。
当時、炭鉱病院にはテレビはおろか、ラジオの電波でさえも受信できるような配線設備はなされてなかった。
そういうわけだから、電波を、ラジオ付属のアンテナで受信するのは難しく、窓辺かその周辺に限られていた。
病室によって違うだろうが、窓は廊下側にはなく、病室の外壁に設けられていたが、窓辺であっても受信状態の良いところとそうでないところがあった。
ちょうど、大相撲の夏場所の最中だった。
昭和33年から、本場所の開催が年6回になったが、5月に開催されるのに夏場所と呼ばれのを、私は奇異に感じていた。
当時の人気スポーツは、相撲、プロレス、野球だった。
前年の昭和32年には、大夕張に大相撲の巡業があり、大夕張の炭鉱景気のピークだったこともあり、私が入院していた病室の人たちも明るかった。
マ、その部屋には、重病人がいなかったせいもある。
その病室には、8人が入院していた。
そのなかの1人が20歳代の青年で、相撲ファンだった。
その人が、私の枕元にあったトランジスタラジオを、窓辺のあっちこっちに持ち歩き、放送の雑音が少ないところを探し回った。
やがて、最も受信状態のよい場所の窓辺にラジオを置いた。
横綱は、千代の山、栃錦、若乃花で、朝汐はまだ大関だった。
この場所の優勝者は栃錦だった。
大相撲の優勝者の副賞で、UAE からガソリンが贈呈されるが、私が幼児だったころは、時代が時代だったので、石炭が贈呈されることがあった。
吉葉山や鏡里が横綱のころで、栃若時代にも続いていたかどうかはわからない。
(2024年3月10日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:taka-jp@outlook.com (メール宛先変更になりました)
中学生時代、自分の周りでポータブルラジオが流行したころ、確かに山の中の大夕張は受信状態がわるかったなあ・・。
大夕張駅近くの空き地で友人のラジオを聞くために外で放送をきいたことがあった。
ラジオの向きやアンテナを回しながら、雑音混じりで聞いていたが、それでも屋内よりはずっと受信状態は良かった。
時代が下って携帯電話が出始めの頃、大夕張までいくと圏外が表示されていた。
いまでは大夕張の鹿島眺望公園でもあたりまえに通じるが、そんなときもあった。