〘 伏見扇太郎 〙出演の〘 天兵童子 〙|高橋正朝 #190
前回、〘 嵐寛寿郎 〙の〘 鞍馬天狗 〙のことを書き込み、ユーチューブで映像をチェックしていたら、偶然〘 伏見扇太郎 〙が出演した〘 天兵童子 〙がでてきた。
ただし、ショートクリップなので、映像時間は短い。
大夕張劇場で観た映画だったが、馬上の〘 伏見扇太郎 〙の凛々しい若武者姿、すなわち〘 天兵童子 〙に扮し、合戦の雄叫びを挙げている場面だけを記憶している。
かなりの人数のエキストラが動いていた。
ウィキペディアの記事には、大都市での初公開年月日が載っているが、それからすると、私がその映画を観たのは、鹿島東小学校の1年生のときになる。
通路が立ち見の人たちでいっぱいだった。
ただし、通路に立ち見客がいるとはいっても、それらの客は、後部座席の3〜4列目ぐらいまでで、それより前に出ると、映画の画面を観る両翼の座席に座っている客のジャマになるので、立ち見客の前部は、通路に座って観ていた。
新聞紙を敷いていた人たちもいた。
最初から新聞紙を家から持ってくる人は用意がいいわけだが、だいたいが、客の入れ替え時に、前の客が使っていた新聞紙を手にいれて使用していた。
客席の両翼の壁沿いにも立ち見客がいて、この場合は、立ち見客は、ステージ近くまで並んでいた。
この映画を観るとき、私と父親は映画の上映中に劇場に入ったので、通路に座って観ていた。
十分後ぐらいに映画が終わり、半数ぐらいの観客は退場したので、我々は運よく座席に座ることができた。
思うに、父親は、映画の上映のほとんど終わる頃合いに入場したのは、座席の確保が目的だったように思う。
まだテレビがなく、映画が最大の娯楽だった時代だ。
映画館が混むのは当然といえば当然だ。
〘 伏見扇太郎 〙は、当時の東映のチャンバラ映画のスターだった。
私と同年代かそれより年配の世代には記憶がある俳優だ。 しかし、銀幕で活躍したのは短かった。 大スターではなかったので、ネットでチェックしても、記事の項目は少ない。
〘 天兵童子 〙の原作は〘 吉川英治 〙だ。
この作品は、戦前に書かれたもので、我が家にあった。 子ども向きの小説として彼の〘 神州天馬侠 〙があるが、これも我が家にあった。
両方の小説を読んでみたが、私には面白いものではなかった。 これら2つの小説を読んだのは、鹿島中学校の2年生の冬休みのときだった。 漢字が読めたのは、総ルビだったからだが、意味がわからなかった表現はずいぶんとあった。
(2024年3月30日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:taka-jp@outlook.com (メール宛先変更になりました)
『神州天馬俠』は、1967年日曜の夕方、北海道ではTVの1チャンネル(HBC)で放送されていた。1967年(昭和42年)といえば、ウルトラマンなども放送されていた時期。その頃、好きだったTV番組の一つだった。
時代設定とかあまり詳しいことは理解していなかったが、筋立てや出ていた俳優が気にいっていた。たぶんタイトルコールには原作吉川英治の字幕も流れていたことだろう。
吉川英治は、言わずとしれた戦前からの大衆小説の大御所だったが、昭和37年に亡くなっているので自分にとっては過去の作家の一人だったが、『宮本武蔵』のシリーズも父の本棚にあり、名前は知っていた。
大学生の頃、講談社文庫で吉川英治文庫として、彼の全作品があらためて発刊された。
気にはなってはいたが、貧乏学生だったので一作品数巻もあるので中々手は出なかった。
就職してお金の工面がつくようになるとすぐに、『新・平家物語』から読み始め、昔の言葉遣いがところどころあったが、それでも夢中になって全巻揃え読み通した。
ただ、次に『三国志』『私本太平記』のあたりで、挫折・・・以後、吉川英治の作品にはふれていない。
立ち見の映画館。
流行っている人気の映画は途中入場し、入れ替え時間に座席を確保した。一回りして見始めた場面になると席をたって映画館をでる。
協和会館でももちろんそうだった。
大夕張を出てからもしばらくはそうだったが、予約で座席を確保するようになって、これが当たり前になって久しい。
そう思っていたけれど、今でも都会の映画館で、そんなスタイルのところもあるらしい。