新東宝映画〘 明治天皇と日露戦争 〙| 高橋正朝 #214

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 私が、鹿島東小学校の低学年のときは、東映を筆頭に、チャンバラ映画が人気だった。   

 そのなかの一つに、鞍馬天狗があった。

    

 勤王の志士、倉田典膳が、馬に跨がり、黒覆面で短銃を使い、ときには杉作少年とともに活躍する鞍馬天狗の映画は、嵐寛寿郎主演で、何本もつくられた。 

   

 子どもだった私は、嵐寛寿郎の鞍馬天狗しか知らなかった。

    

 3年生のとき、明石町番外地の我が家に帰るとき、鹿島橋を渡って常盤町を経由して行くいつものルートではなく、千年町のルートを歩いて行った。 

   

 学校帰りに千年町に行けば、必然的に大夕張劇場にかかっている映画のポスターを見ることになる。

 

    

 そのときの映画は、嵐寛寿郎は出演しているものの、チャンバラ映画ではなかった。

    

 その映画の題名は、〘 明治天皇と日露戦争 〙。

    

 ネットでチェックしたら、初上映は、1957年4月29日となっている。

    

 当時の石炭景気に沸く大夕張劇場での上映は、同年の夏ごろだったろう。 

   

 髭をつけているせいか、嵐寛寿郎の扮する明治天皇は、よく似ていた印象だった。

    

 子ども時代に観た嵐寛寿郎の映画は何本か観たが、どれもこれも鞍馬天狗だった。

 

〘 明治天皇と日露戦争 〙の映画そのものは観ていない。

 大夕張劇場で観た、何かの映画の予告編で観ただけである。 その何かの映画というのは、題名も内容も覚えがない。

    

 同時代に活躍した片岡千恵蔵は、チャンバラ映画とギャング映画にでていて、我々子どもにも知られていたが、嵐寛寿郎は、チャンバラ映画のスターだった印象が強く、ちょんまげ姿でない嵐寛寿郎の印象は、ちょっと新鮮だった。

    

 後年、嵐寛寿郎が東映のヤクザ映画に出演したときにも、ちょっと驚いた。

    

 嵐寛寿郎の明治天皇は、わりと似合っていたようで、やはり、新東宝で別な映画が製作されている。

    

 大映の永田雅一は、娯楽作品だけでなく、文芸作品の映画化にも意欲的だったが、新東宝の大蔵貢は、会社経営のためか、芸術作品は敬遠していたようだった。 

  

 このような感想は、もちろん、子ども時代にもったわけではない。 念のタメの蛇足 ••••••。

 

 (2024年9月14日 記))


   

(筆者略歴)   

 昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。

メール宛先:taka-jp@outlook.com  (メール宛先変更になりました)

  


   

   

 

1件のコメント

  • 日本で、映画館観客数が最も多かったのは、1958年(昭和33)で、その数は11億2745万人であるという。
    1958年には全国に7000館をこえる映画館があった。
    テレビ放送開始とともに映画館の観客数も激減し、10年後の昭和43年には、三分の一にまで減少し、スクリーン数(映画館数)も2000館以上減ってしまっという。
      
    大夕張にあった2軒の映画上映施設、協和会館と大夕張劇場。
    そのうち、炭砿の福利厚生施設の一つだった協和会館と違って個人経営だった千年町の大夕張劇場が映画不況の影響を受けて閉館になったのもこの頃だったのだろう。
    すでに昭和43年の住宅地図には、大夕張劇場の名はない。
      
    映画館のあとは、パチンコ屋、飲み屋などの変遷を辿ったらしい。
     
    それでも自分にとって大夕張を去るまでずっと、(おそらく閉山までも)、そこは『劇場前』という三菱バスの停留所があり、千年町のにぎやかな繁華街を思わせた場所の一つだった。

    昭和28年 大夕張劇場

     

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