東宝と新東宝と大蔵映画 | 高橋正朝 #216
かなり以前のことになるが、そう、もう20前ぐらい前の秋である。
上野公園に行き、毎年11月の第一土曜日に東京大夕張会が開催されるという上野精養軒を横目に見ながら美術館へ行き、帰りは、ブックオフや松坂屋上野店に行ったことがあった。
途中で、甘味処〘 みはし 〙に寄った。
バンコクでは、和食店によっては、クリームあんみつを提供するところがあるが、材料が違うせいか、味覚がやはり違う。
それで、今では、バンコクでクリームあんみつを食することは、私は滅多にない。
日本に帰国した際には、三日にあげずに甘味処に足を向ける。
〘 みはし 〙に向かって通りをゆっくり歩きながら、反対側のビルを見ながら歩いた。
京成上野駅側に並んでいるビル群である。
鈴本演芸場が見えてきた。
寄席という場所には一度も足を運んだことはないが、鈴本演芸場にはいつかは中に入ってみたいものだと思って見ているが、未だに実行していない。
そちら側のビル群の前を歩いていれば気づいていたのだろうが、歩きながら上野鈴本演芸場のほうを眺めていたら、大蔵映画館の存在にあらためて気づいた。
大蔵映画、すなわち、新東宝の社長だった大蔵貢の、ピンク映画を製作していた会社である。
前々回投稿した、〘 明治天皇と日露大戦争 〙を製作したのは新東宝で、製作者は大蔵貢である。
大蔵貢は新東宝の社長であったがオーナーではない。
東宝と新東宝の関係、および大蔵貢については、ウイキペディアに載っているので、各自でチェックしてみてください。
私は、それらの関係の内容は全然知らなかったが、今回初めて読んでみたら、私にはとても面白かった。
大夕張の子ども時代、映画会社の社長の名前を知っていたのは、東映の大川博だった。
これは、東映製作の、本邦初のカラー長編フルアニメーションの〘 白蛇伝 〙の予告編で、社長自ら宣伝のために出演していたのを観たせいだった。
団塊の世代とその前後の世代は、その〘 白蛇伝 〙の予告編と〘 白蛇伝 〙の本編は、大夕張劇場で観たはずである。
初公開は、1958年10月22日とウイキペディアに載っている。
大夕張での公開は、正月より少し前だったのではなかろうか ••••••。 学校の先生に引率されて、全校生徒が観たような記憶である。
私が鹿島東小学校4年生のときである。 ディズニーのフルアニメーションに勝るとも劣らないカラー映画だった。 日本でも、こういう長編マンガ映画を作れるんだと感動した。
寒い冬、小便に起き、布団に戻ってから、私が、昨日観た〘 白蛇伝 〙のスクリーンのなかに潜り込んで夢想していた。
当時の東映は、劇場用長編アニメにずいぶんと力をいれていた。 そういうわけだから、全盛だったマンガ雑誌のグラビアでも〘 白蛇伝 〙は紹介され、たいてい、ちょびヒゲの大川博の写真も載っていた。
次いで、映画会社の社長の名前を知ったのが、前述の新東宝の大蔵貢だった。
大蔵貢のケースは、名前だけを知っていて、顔写真は、今回、ウイキペディアでチェックする際に、初めて見たことになる。
子どもだった私が大蔵貢の名前を知ったのは、映画、〘 明治天皇と日露大戦争 〙がセンセーショナルで、私の親を含んだ大人たちが、その映画のことや、同じ製作者の大蔵貢が、別な映画に起用した女優のことを、茶飲みばなしとして話題にしていたからである。
単なる映画の内容の話しではなかった。
その話しの内容は、大要、つぎのようなことで、ネットの記事を一部かいつまむと、
『 高倉みゆきとの関係について「女優を2号にしたのではなく、2号を女優にしたのだ」 』
ということで、大蔵貢の名前が記憶に残ってしまった。
その後、大蔵貢の名前を偶然見たのは、東京で、電工として働いていたとき、冬季、恵比寿の場末の映画館でのことだった。
二十歳ぐらいだった。
やるべき電気工事の仕事が、午後の2時ごろにケリがついたのだが、夜間に、私がコンクリート打設現場に立ち会わなければならなくなった。
喫茶店に長時間居据わるわけにはいかない。
商店街のはずれに、小さな映画館があった。 旧作の映画を3本上映する映画館で、入場料は安かった。
そこで時間をつぶそうとして入場した。
上映する3本のうち1本はピンク映画だった。 その映画の上映時間は、1時間あったかどうかである。
その映画のスタート時、大蔵映画という文字が画面にでてきた。
製作には、大蔵貢の名が出てきた ••••••。
主演女優は、水城リカ •••••。
私は、ミズキリカとよんだのだが、ウイキペディアに載っているかどうかは不確かだが、今回、念の為、チェックしてみたら、ビンゴででていた。
ミズキリカと読むのはマチガイで、ミズシロリカと読むらしい。
有名ではない。
彼女の出演映画を観たのは、そのときの1本だけである。
キレイな女優さんという印象だった。
その映画は、モノクロだったが、濡れ場になると、5〜6分間ぐらいだけカラーになった。
その後、3ヶ月ぐらいしてから、テレビの11PM に水城リカがバスタオルをまとって出演したのがあった。 出演中に、水城リカのバスタオルが、突然、身体から落下してしまった。 これは、事故だったのか、計算ずくでワザと落下させたのか、わからない。
今回、無名のピンク映画女優である水城リカのことが、ネット記事にでているかどうか、ダメ元でチェックしたら、ラッキーなことに叙述があった。 しかも、ウイキペディアに掲載されていた。
ネット記事を読んでみると、新藤兼人が監督した映画にもチョイ役であったにしても出演していたようだったから、映像関係者には、存在感があった女優だったようだ。
その、水城リカが出演した映画を、ビデオでいいからまた観たいと思うが、可能性は限りなくゼロに近いだろう。 新藤兼人や若松孝二が監督した映画のビデオは一般的人気があるわけでもなく、失礼な言い方だが、水城リカも無名と言ってもいい女優だから ••••••。
鈴本演芸場に近い大蔵映画館のほうは、〘 上野オークラ劇場 〙として現在も存在しているようで、機会があれば行ってみて、入場してみようと思っている。
(2024年9月28日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:taka-jp@outlook.com (メール宛先変更になりました)
以前、高橋さんの『文部省推薦映画』(続大夕張つれづれ31)のコメントでも書いたことがあるが、おそらく鹿島小学校の映画室で、東映のアニメーション第1作『白蛇伝』と続く『少年猿飛佐助』は見たことがあると思う。『思う』というのは、『少年猿飛佐助』の方は、強く印象に残っているが、『白蛇伝』の方は、おそらく今、予告編を見ても、当時の自分にはあまり印象を残さなかっただろうと思う。ただ、当時TVアニメがまだ放映される前のことで、小学校の映画授業では、自然・科学・宇宙などの教育用の映画も見ていたが、特にアニメ(当時は漫画)の鑑賞回はにあたると、自分を含めて子どもたちは大喜びだった。
大蔵映画の名も記憶にあった。
残念ながら(?)一度も見ることはできなかったが、札幌ではすきのの場末の映画館や今は無き札東映画劇場での公開が多かったように思う。