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第1編沿革 第2章 南部時代

第2章 南部時代

1、開 闢

 明治21年夕張炭田の大露頭発見以来、附近炭砿の開発が盛となり、二股(現南大夕張)夕張川岸15尺露頭が発見されたが、地形峻険にして輸送困難のため開発は進まなかった。

 明治31年頃、福山某がこれの試掘権を得てより福山抗と称されたが、その後数名の手を経て川崎茂実の名義となり、これが開発の目的をもって

 明治39年1月18日、逓信省鉄道局に対し清水沢・二股間5哩40鎖の専用鉄同敷設免許の申請を提出せり

 明治39年6月 坂本則義を社長とする京都合資会社が組織され、権利一切を譲り受け炭砿事業に着手。同時に専用鉄道の前段としての馬鉄工事施工中、

 明治39年8月2日、鉄第884号をもって専用鉄道敷設免許権を得た。

 明治39年10月 京都合資会社が夕張川岸15尺露頭を目標に福山抗を開坑、更に同坑の北方10数町、滝ノ沢上流に滝ノ沢抗を開坑、二股に事務所と貯炭場を設ける等内外の設備を整えたが、

 明治40年7月 京都合資会社は炭坑部門(含鉄道)を分離独立させ株式組織とし、夕張炭砿株式会社と命名。権利一切を譲渡。更に福山抗の附近に錦抗を穿ち馬鉄工事も着々と進められた。

2、 馬 鉄

 明治39年6月以来、夕張炭砿株式会社により施工中の馬鉄工事は、

大夕張炭砿株式会社社紋

 明治40年8月完成、石炭の搬出が開始された。

 その後、明治42年9月、大夕張炭砿株式会社と社名を改称し、

 明治44年6月1日、専用鉄道が敷設される迄、4ヶ年に亘り馬鉄をもって、二股在住請負人、佐藤庄太郎をして石炭の積出を行わしめた。

 当時の運炭方法は、輓馬又は自転車道(エンドレス)により抗口から選炭場へ運び、バースクリンにて塊、粉に別ち、馬鉄をもって省線清水沢駅に輸送し鉄道の貨車に積替え市場に搬出した。

 馬鉄は5哩40鎖、軌条は45封度、軌間2呎6吋の単線であるが、二股の選炭場、清水沢の石炭積込場及び中小屋(現遠幌駅構内附近)には行違線を設け、遠幌加別川には吊り橋が架けられ、葡萄山の断崖は難所であった。

 その昔、山道を徒歩で葡萄山を登り、葡萄蔓を伝って断崖を下り川岸を迂廻して中小屋に達したが、この断崖を人呼んで葡萄蔦と称し、これが葡萄山の語源である。

 当時の馬は俗に道産子馬と呼ばれる和種で、1頭20円乃至50円。
4歩積又は5歩積トロリー5両を連結して牽引。下り勾配で加速、惰力をもって上り勾配を上る波状の連続とし、制動装置としては鋼棒を車輪に差込み、更に馬夫が挺子を引く木製の棒であり、これは数日にして更換しなければならなかった。

 5両のトロリーに2屯の石炭を積込み「送り」という送状を携行、5哩の道程を運搬して70銭、1日2往復で1日1円40銭。

 40数頭の隊列をもって、清水沢迄 山中を運搬する様は、当時としては見事なものであった。
 後に至り輓馬の疲労を考慮し、輸送区間を中小屋で2分し中継のことゝした。

 当時の労賃は1日30銭。馬糧の燕麦が1俵80円という。

 冬季降雪期には2屯積の馬艝をもって運搬したが、大雪に見舞われ、数日間、又10数日間も輸送中止すること屡々であった。

 清水沢の貯炭場は盛土とし、積込場(現清水沢駅構内日通営業所附近)に炭台を設け貨車積を行った。

3、 専用鉄道

 明治39年8月2日、鉄第884号をもって清水沢・二股間専用鉄道の敷設免許を受けてより鉄道工事は着々と進められ、

 明治43年10月道床基礎工事、葡萄山隧道工事 及び 遠幌加別橋梁工事が完了。

 翌明治44年春、融雪を待って軌条を施設、5月に至り完成。

 6月1日から鉄道院運転管理の下に専用鉄道として運転を開始せり。

専用鉄道は清水沢・二股間5哩40鎖、軌条は60封度、軌間3呎6吋、機関車は鉄道院追分機関庫の7214号、石炭車はト号10屯車の外後に至り大型鉄製車(オテセ)が入線した。

葡萄山隧道

葡萄山隧道

延長6鎖81節(137m)
煉瓦積
曲線とすべく東西両面より掘進せしも、測量の缺陥から中央結合部に於て
中心線と一致せず、無理に施工のためS曲線とせり。

遠幌加別橋梁

 遠幌加別橋梁の架設については、馬鉄に使用せし吊橋を人道として存置する目的をもって、吊橋の上流に併行して架設のため橋梁の前後を曲線として軌条を布設せしが、橋梁工事中に吊橋は老朽のため落下破損せり。

 現在の遠幌加別川橋梁は 昭和10年再度架替せしもので馬鉄用吊橋と同位置にて、上流に今なお旧橋梁の橋脚が残墟せり。

7214号蒸気機関車

形式 7200 1C形テンダ機関車
旧所属  北海道炭鉱鉄道
所属   鉄道院
使用初年 明治23年(1890年)
製造所  Baldwin.Locomotive.co(米)

 缶中心を低くして安定性を持たせるためか、火室が極端にさげられている。
その関係で第2、第3動輪間がかなり長いのが本機の特徴である。

大型鉄製車(オテセ)

 オテセの形式、両数及び製造年は次の通りであり、当時としては明治44年製の11000形式が入線したものと想像される。

形 式両 数製造年
明治36年
10500300大正14~15年
11000125明治44年
11000400大正2年


 明治45年6月、三菱合資会社が大夕張炭砿に資本投入共同経営となり、増資後は資本金150万円となり組織も一新され、明治45年7月には若菜坑を開坑、これを主力として愈々発展せり。

送炭場付近

 明治45年、大夕張炭砿株式会社創業当時に於ける、二股(現南大夕張)構内、送炭場附近。

 写真は複写せしため不鮮明なるも、現写真によれば、送炭場屋上に大夕張炭砿株式会社の社紋が掲げられ、機関車ナンバ-プレ-トに7214の番号も確認される。

 大正5年1月26日、三菱合資会社は大夕張炭砿株式会社を吸収すべく、譲渡申請を提出、大正5年2月17日 監第309号をもって認可を受け、権利一切を譲り受け、三菱合資会社に移管後は炭坑部の美唄砿業所の管理下に 大夕張砿と称した。

 大正7年4月10日、三菱合資会社は炭坑部を分離独立させ、三菱鉱業株式会社(受権資本金2億円)を設立。

 6月14日これの譲渡を監第1051号で認可された。

 当時大夕張砿の職制は運転管理を鉄道院に委託していた関係上、鉄道は係部門を置かず、軌道保守は工作係、乗降客の取扱いは労務係で行い、労務係詰所を大夕張駅とし、小型客車2両を連結運転せり。

 もともと石炭輸送のための専用鉄道であったが、他の地区とを結ぶ道路がないため、鉄道の旅客便乗が許されていた。

 但し当時は施設も悪く危険が多かったので乗車券(乗車勘合証と称す)の裏面には人命を保証しない旨注記され、表面様式は白色無地に横線が1本。行先により赤色・青色に区別されていた。

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