二股峠 | 小林光志

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 昭和40年3月まで、夕張工業に大夕張から通学していました。


 朝、7時05分?(15分?)少し高台にある大夕張駅から駅員が、いつも仁王立ちで、速く走るようにコールしていました。

 いつも私は、春日町でしたが、かなり遠くからその姿を見てダッシュしていました。

 駅員が怒る暇がないことをよそに、汽車に飛び乗ったものです。

 町中が、皆を干渉してうまくコミニュケーションしていたな、といまも感じます。知らない、おじさんやおばさんから良く怒られたり叩かれたりもしました。怒られる理由は知っていましたが。

 炭坑という閉鎖社会(当時はよく言われました)でしたが、今、外へ出てこのような住み心地の良い場所を探すのが難しいくらいです。

 さて、二股峠は、夕張工業の正門前が、峠登り口で授業開始時間と札幌行き時間がほぼ同じ時間でした。

 おかげで、夕工の生徒は、時々授業サボって片道切符で札幌まで遊びに出かけました。この時代は、大夕張発札幌行きは、無かったと記憶していますが、微妙な時期ですがもしかしたら39年くらいから有ったかもしれません。


 反面、この峠のおかげで、夕張工業(張工)の名を全道、全国に知らしめた時代もあります。

 七十七曲がりと言われるこの峠を利用しての運動部の練習は、地獄のような練習場でした。

 夕工のマラソン大会もこの峠を利用しました。

 スキー部、陸上部、柔道部は、インターハイ、国体の常連でした。

 スキー部からは、オリンピック選手も出ました。

 私の年代以上は、懐かしいでしょう。大内兄弟(北炭夕張)、志村(日大→拓銀支店長退職)、大久保(大夕張春日町出身から明治大学→日刊スポーツ局長で退職)、浅利(明治大学→雪印乳業)、など海外国内で活躍しました。

 実は、もっと古い有名選手たくさんもいます。私もその端くれでしたが。

 錦沢先の夕鉄スイッチバックも、当時は全国的にも有名な峠越えの鉄道でした。

 錦沢公園は、純情な?私たちの格好のデート場所でもありました。

 大夕張からは、南校までの学区でしたから大夕張出身で詳しいのは、夕張工業へ通学した人たちでしょう。
私の少し先輩までは、修学旅行に女学院(洋裁学校)と一緒に修学旅行と言う時代もありました。

 男子校と女子校ですから、こんな夢みたいな危険な修学旅行は、どんなだったでしょうね?当然、男女関係の問題で中止になったようですが。

 ま、のんびりしてたというか、おおらかだったというか、よき時代でしたね。

 今だったらまわりが何というか、聞きたいですね。おかげでのびのび育ちました。もちろんいじめなんて有りませんでしたよ。


 (2000年02月20日 記)


随想

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