大連でのテレビで見た白金の 森本 さん|高橋正朝 #16

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 私が、中国の大連にいた当時、3年間はホテルに住んでいた。

 外交官や特例を除き、当時の中国では、たとえ、『 労働許可証 』を所持していたとしても、国籍を問わず、外国人の宿泊は、当局が認めたホテルでなければいけない時代だった。

 我々が宿泊していたそのホテルは大型で、NHK 衛星放送を時々見ることができた。時々というのは、ホテルが、NHK 放送を1日に数時間しか館内に流さないからだ。

 当局の管理者が、自国民に見せたくない放送内容になると、放送が遮断された。それが数日間続くこともあった。大連は、日本語を話す中国人がわりと多かったので、当局も神経質になっていたのだろう。

 ある夜の9時過ぎ( 時差が1時間あるので日本時刻だと10時過ぎ )、夕食から戻り、ベットに寝そべってテレビを ON にし、 NHK 衛星放送を見始めた。番組の途中から見始めたことになるが、日本のどこかの農村がでてきた。

 農村風景をカメラが追いながら、ナレーターが、「夕張市の白金地区の •••••• 」と言い出したから、「 オヤっ ? 」と思ってテレビの画面に神経を集中した。

 テレビの画面だから、映画の風景画面のように、広い領域を映していない。しかし、ナレーターが「 夕張岳が •••••• 」「 シューパロ川が •••••• 」「 白金地区の •••••• 」と言い出したから、いくら勘の悪い私でも、『 我が生まれ故郷、大夕張 だ !!! 』と気づくことになった。

 我が生まれ故郷ではあるが、日本の中ではまったく知られてないイナカである。それが、大 NHK の画面に出ているのであるから、食い入るように見つめた。

 単なる数分間のニュースや、短時間の、イナカの風物詩の紹介番組ではなさそうだった。

 番組は、1人の中年男性の、白金地区の農業の日常を追っていた。

 その男性は小柄である。

 ナレーターが、「 森本 さんは •••••• 」「 森本 さんの •••••• 」と、苗字だけを言っていた。おそらく、番組が始まった最初か、早い時期に、森本さんのフルネームの紹介をしていただろうと思う。

 番組が進むにつれ、奥さんが出てきた。小学生らしい2人の娘さんも、気恥ずかしい、という感じで登場した。

 奥さんが、寄り合いで、仲間と踊りを披露しているのを、森本さんが、微笑ましく見ている。

 森本 さんは、養鶏もやっている。出荷する玉子のダンボールには、名前が書かれていて、たしか、『 さくら ••• 』と書かれていた。『 ••• 』の部分は、『 玉子 』だったか、『 鶏卵 』だったか、『 農場 』だったか、ハッキリとは覚えていない。


 ここで、森本 さんご本人の言葉が入る。正確な表現を述べるのは不可能だが、意味としては、こうだ。

 「 養鶏をやっているのは、玉子の出荷以外、もうひとつ理由があります。それは、鶏フンを利用して、堆肥をつくる、ということです 」  「 鶏フンは、すぐには使用せず、数年間( 3年だったか5年だったか実際の数字を言っていた )溜めておき、発酵させるのです 」

 と言いながら、その鶏糞を手に取って触りながら、カメラの前で説明していた。

 その画面の数分後に、当局の管理者に、ホテルの館内の NHK 衛星放送が遮断された。

 番組内容も映像も、当局を刺激するようなものは何もなかったと思ったのだが ••••••。

 このとき見ていたのは、衛星放送だったので、地上放送の番組の再放送だったろうと思う。

 だから、大夕張にゆかりのある人も、そうでない人も、日本全体のトータルとしては、この番組を視聴した人数は、結構いたに違いない。

 森本 という苗字は、ものすごく珍しい、というほどではないが、佐藤、鈴木、田中、佐々木、斉藤、伊藤、阿部、山田、高橋、などよりははるかに少ない。現に、我々が卒業したときの同期生の名簿をみると、森本 という苗字を持っているのは、たった1人だけだ。

 森本和義 さん。 鹿島中学校第17期生卒業時の名簿をみると、 H 組であった。私は、隣の I 組だった。

 彼は、2年生のときは K 組で、私とは同級だった。担任は、あだ名が、デンスケこと、理科担当の 大宮六郎 先生。

 当時の K 組は、団塊の世代の生徒数に対応するため、理科室を急遽普通教室にしたもので、窓際の洗い場といくつかの蛇口、実験台だったとおぼしきものがそのまま残っていた。真上は音楽教室だった。

 『ふるさと大夕張』に載っている鹿島中学校の見取り図を眺めてみると、生徒数が残減するにしたがい、K  組は、後に、また理科室に戻ったようだ。

 朝、登校するとき、開拓に住んでいる 森本 さんと一緒になることはほとんどなかった。 下校時には、ときには一緒になることもあったが、それほど頻繁ではない。 

 私の記憶にある 森本 さんに対する印象は、小柄でおとなしい人だった。下校時にも、口数は少なかった。テレビの画面に映っていた 森本 さんも、おとなしそうで小柄だった。同一人物だったのであろうか ?

 さて、ここで、飯田雅人 さんが作成した平成9年白金住宅地図を見てみた。そこには、森本 という苗字を見つけることができたが、名前は、繁 となっている。

 NHK 衛星放送では、娘さん2人だけの登場だったと思ってたが、息子さんもいたのだろか ? 番組の途中から見て、そのうえ途中で放送を遮断されたので、正確な内容を把握できず、残念だった。

 飯田雅人 さんが作った『 ふるさと大夕張 』を読んでいる人の中には、上記の NHK 放送を視聴した人もいるのではないでしょうか ••••••。


(筆者略歴)

昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


3件のコメント

  • 下記『フォレスト』の下間さんからのお話ですと、
    _
    この番組は、平成2年頃放送された、
    NHK『北海道中ひざくりげ』
    _
    だそうです。

  • NHKの放送は見ていませんが、でんすけ先生、大宮先生のことはよく覚えていまして、もちゃっとしたしゃべり方が印象に残っています。
    確か平成10年頃だと思いますが、私の仕事で冬になると豊平川の雪堆積場のパトロールをしている時期がありました。
    雪を積んだダンプの台数をチェックするプレハブ小屋がありまして、そこでどうも見たことがある人だと思い、プレハブに入り作業の状況を聞きながら、ひょっとして昔大夕張に居たことはありますか?大宮先生じゃないでしょうか?
    と尋ねると、そうだ大宮だよともっちゃりと話していました。
    シルバー人材センターに登録していまして、冬期間は雪堆積場でに派遣されていたようです。
    確かでんすけというあだ名でしたねえと話すと笑っていました。
    教育大学が山鼻にあったころに先生になったと話していました。
    私と、姉のことは覚えていたようです。

  • 今から20年以上前の放送でしょうか。
    当時の、中国での放送事情にもふれられていてたいへん興味深かったです。(当時も 今もあまり変わりない?)
    私は残念ながら記憶にありませんでした。
    _
    フェイスブックに福山さんから次のような書込みがありました。
    _
    森元さん、沼の沢でユースホステル『フォレスト』を営んでいらっしゃる方ですね。
    今は娘さんが主に切り盛りされていますが、奥様は時々顔出されている様です。
    何度か泊まりに行った事がありますが、沼の沢から宿まで、ご主人に送迎していただいた事もあります。

    朝どり野菜が朝食に出て来たり、ボリュームと栄養満点の食事です。
    _
    サイトもありますが、素敵なところですね。
    今年の6月に北海道新聞の岩見沢・南空知版に紹介記事が掲載されたそうです。
    オフィシャルサイトにも載っていましたので、紹介します。

    https://forestfarm-officialsite1.amebaownd.com/

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