磯次郎の沢のビーバーダム | Kawauchi Masami
この写真は、磯次郎の入り口です。
行っても、行っても同じ様なカーブが続き、終いに何処まで来たか、わからなくなる様な光景でした。
その中でも、一つ一つのカーブの特徴を覚えていて、場所によっては切り立った崖があり、そう言う所に山苺がへばり付いていました。
私達は夢中になって、採りました。
磯次郎の流れの緩い、水溜りの様な所には、ウグイの稚魚がいっぱい泳いでいましたね。
そんな磯次郎の入り口から、1〜2kmぐらいのところ、自分たちの秘密基地、ダムをつくりました。
当時、磯次郎の沢では、泳ぐ深さが有りませんでした。
けっこう、広いところは有りましたが、そういう所は、浅瀬で10cmの深さあったかな〜。
で、比較的深めの所を見つけては、木を集めてダムを作りました。
私達のダムは深さ60〜70cm、幅5m長さ10mぐらいの、自分達が泳いだり、魚を取ったりできる、大きなものでした。
時には沢の石をどかしたり、なにせ10人くらいでつくるので、目的が一緒なので、作業は、はかどりました。
家から持っていくのは、ナタ一丁と、ノコギリぐらいで、あとは全て生手でした。
最初にダムの作る所に石を並べて、そこに、木を引っ掛ける様にして行きます。
子供とは言え、結構な物が出来ました。
湧き水のところでも、小さいダムを作って遊びました。瓶を破って先の方を繋げて、水のトンネルを作りましたね。
大雨のあとなどは みんなで 修理に行きました。
さて、春日町の河岸には材木を切り出し、運ぶためのロープウェイのディゼル基地が有りました。
その時木材を、置く土場が有りました。昭和38年頃だったと思います。
で、ロープウェイを1〜2年で外してしまい、今度は磯次郎の近くに、材木を積んで通れる、トラック用の丸太の橋を作り、ブルドーザーが磯次郎の沢の奥まで道を作り、トラックで木を切り出していました。
私達が、木とか葉っぱで沢にダムを作り「ビーバー」のダムの様に作ってたダムも ブルドーザーに壊されました。
(筆者紹介)
昭和29年6月生まれ。三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務
こんな小さな沢に 尺を超すアメマスがいました。
それが目的で 沢の奥にはいり 熊と出会ったことおありました。
自慢じゃないけど 陸上競技ではインターハイに出るほど私の足は相当早かった。
熊に出くわしたときは、みんなは、そんな私を追い越して逃げてました。
火事場のバカ力?かな。。
磯次郎の沢は、たくさん思い出があります。