子どもたちの冬|ziny
2020-12-17
2022-03-30
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冬、八百五十へ行く道や、神社の上の方には兎の足跡がよくありました。
鹿島小学校の石炭庫、物置?にも、兎とりのハリガネの罠があったような記憶があります。
当時の鹿島の冬の子供たちの仕事は、ジャンプ台作りでした。春日町の坂道・・私はりき(じき)しんの坂でした。道を90度に横切りジャンプ台を作りましたね。たまに、馬車や車が来ると潰されましたが。
『しろ』作り、これも鹿島の子供の最高の仕事でしたね。
かまくら・・なんて軟い言葉はあいません。
町内・外対抗で雪玉を凍らせての戦争(潰しあい)なんかもしましたが、何故かけが人はなかったです。
びしょびしょに濡れ、ストーブの周りはほしものだらけ。片栗粉湯『くず湯』が、ほんとに美味しかった。あれはサッカリンかな?
『思い出貼』に、コークス工場の写真がでていましたが、ここでは高校3年、昭和43年頃、コークス取りのアルバイト、『出面取り』でいきました。なつかしいです。
左側にもう一棟あったような気がしますが。でも、冬のマイナス10度くらいの時でも、やけどしそうなくらい熱かったですね。
その手前では坑木(8尺、6尺)担ぎもやった。バイト代は十字屋でバッシュ(バスケットシューズ)を、またその先の楽器屋さん?でギターを買うのに使ったのかな?
(2002年2月22日 記)
全身を雪だらけにして外を遊び回った日々。
特に新雪が降った日には外で遊ぶのが大好きでした。
そんな晴れた日の朝、家の裏の八百五十につながる山の斜面には、いくつもの兎の足跡がついていたことを覚えています。
この足跡をたどれば兎に会えるかもしれない、そんなことを本気で思いながら、深い雪をこぎながら、沢を下り、崖を上って追いかけたこともありました。
鈍重な自分と遭遇するような兎は、一匹もいませんでした笑。