サイレン |高橋正朝 #18

50916

 私が物心ついた時分から、明石町では、定刻を知らせるサイレンが鳴っていた。もしかすると、戦前からそうだったかもしれない。

 かなり大きな音だった。明石町の全域に知らせるためだったから、それなりの音量が必要なのは、子ども心にも理解できた。

 鹿島東小学校に通うようになって、幼児のときより活動範囲が少し広がり、明石町だけでなく、常盤町や千年町でもサイレンが鳴ることを知った。自分の耳で聞いた覚えはないが、大夕張の他の地域でも、サイレンは鳴動していたのだろう。

 明石町駅のホームの向かいの溜池のそばの山側に、タールを染み込ませた木の2本の電柱が立っていて、その高所に横木が架設され、変圧器が乗っていた。電柱の組合わせは、アルファベットの H の様態なので、一般に H 柱と呼ぶが、その H 柱に、サイレンも架設されていた。

 そのサイレンは毎時ではなく、回数は正確に覚えていないが、1日に3回か4回ぐらい鳴っていた。皆さんご存知のとおり、かなりの音量である。

   

我々の子ども時代は、皆、貧しいから、腕時計を持っている児童は皆無だった。溜池の近辺で遊んでいて、サイレンが鳴ると、ビックリというほどではないが、ハッ!とはした。

  

 反面、山の中に入ったり、チャンバラごっこに夢中になっているときなど、時刻が判って便利でもあった。

   

 私の父は、三菱鉱業で働いていなかったが、炭鉱で働いていた人たちは、1番方、2番方、3番方と呼ばれて、日中寝ていた級友の父親たちがいた。1日3交代で働いていたのだろう。それで、出勤時刻の確認を促すためのサイレンだったのだろうと想像している。

 我が家の古めかしい振り子式の時計は、時刻ごとに、その数字の数だけボン •••••• ボンと鳴り、30分のときには、歯車の軋んだ音がし始め、すぐにボン、と1回だけ鳴った。 

  

 サイレンが鳴る正確な時刻は覚えていないが、私の母は、毎日、午後のサイレンを聞いて、振り子式の時計のゼンマイを巻いていた。時には、ゼンマイを巻き忘れて時計が止まってしまうことがあったが、そういうときは、ラジオの時刻で時計の針を合わせていた。

  

 外にいると、千年町か常盤町のサイレンかは分からないが、十秒ぐらい遅れたり、または早まったりして、風向きによっては、小さい音だが、遠くの明石町番外地まで聞こえてくることがあった。

   

 それら複数のサイレンが鳴動する時刻が一致するのは、あまりなかったような記憶だ。大夕張の他の地域で聞くサイレンはどうだったのだろうか ••••••。

   

 サイレンを鳴らしていたのは、誰かが手動でスイッチをいれていたのか、それとも、タイマーで自動的にスイッチONしていたのかは知らない。

 千年町のサイレンは、大夕張劇場の裏側、常盤町へ降りて行く、崖のところにあったような気がする。

 常盤町のサイレンは、鹿島東小学校や中学校に行く通学路にあった岩野商店の付近の H 柱にあったように思う。

 私が中学生になったころから、聞かなくなったような気がするが、記憶違いだろうか ?

 

 それとも、幼児や小学生時代より興味深いことがたくさん現出し、サイレンが鳴動しても、注意が向かなくなった結果、印象に残らなくなったからだろうか。

 通常、サイレンが鳴動するときは、その定刻に1回だけだった。しかし、定期的な時刻でないとき、サイレンが数回鳴ることがあった。そういうときは、事故か事件か、何か普通でないことが起きたのだろうか ••••。

   

 ••••••••••••••••••••••••••••••••••••

 

 私が、初めて海外で働くため、リビアに行く途中、アムステルダムの郊外のスキポール空港に早朝に到着し、タクシーで、1泊予定のクラスナポルスキーというホテルに向かった。クラスナポルスキーは、天井が高く、古風で私好みのホテルだった。

 宿泊手続きが終わったのが、9時過ぎだった。ホテルの近くには広場があり、王宮があった。ヨーロッパで最も庶民的と言われたベアトリクス女王の時代で、王宮も大きくなかった。街は美しいが、こぢんまりとした感じだった。

 リビアに到着してから、職場で種々の手続きが一段落して雑談に移ってから知ったのだが、クラスナポルスキーというホテルは、由緒ある高級ホテルだと聞かされ、ちょっと驚いた。王宮のそばにあったのが得心した。 そして、そのホテルの背後が、有名なアムステルダムの飾窓がある界隈だという。

   

 私が加わったリビアでのプロジェクトは、日本から首都トリポリに行く場合、途中で1泊する地は、ロンドン、マドリッド、パリ、フランクフルト、アムステルダム、のうち、どれを選定してもよく、どこにするか、と担当者に訊かれたとき、「 何処でもいい 」と答えたがため、出発前日に航空チケットを貰うまで、中継地がアムステルダムとは知らなかった。

 

 仕事に行く、ということだから、旅行ガイドブックを持参するという柔軟な発想はハナからなかった。それで、そのときは、アムステルダムの飾窓界隈を観る機会を見逃してしまった。

 

 成田空港を出発し、飛行中、乱気流で、飛行機が数メートルか10数メートルか知らないがストンと落ちたときなど、大勢の乗客が叫び声をあげた。それやこれやで、飛行中は一睡もしなかった。叫び声を上げたのは、どういうわけか、女性たちだけだった。

 初めての海外で働く不安、言葉の問題、誰かと一緒に行くのかと思ったら、出発前日に私1人だけだ、と告げられる。そのうえ、託送と呼んでいる 200Kg を超える余分な荷物を持たされ、税関手続きはどうなるのか、という不安。全然知らないイスラム世界、生まれて初めて乗った飛行機 ••••••。

   

 一睡もしなかったけど、初めての異国の地。飛行機の中での思い患った事柄などは、すべてアサッテの方向に飛んで行ってしまった。眠気なぞなんのその、見るモノ聞くモノどれもこれも初めてで物珍しく、夢中で市内見物に歩きまわった。電工として働いていたとき、2日半、寝ずに働いたことが何度もあり、その経験がいきた。若かったなぁ ••••••。老人になった今では無理だけど ••••••。

   

 写真や映画での景色ではなく、実物を目にするというのは、やはり興奮し、感激はひとしおだ。

   

 カフェで軽食を摂ってコーヒーを飲み、市内を散策しながら、アムステルダム中央駅に着いた。

   

 因みに、明治政府が東京駅をつくるとき、参考にしたのが、アムステルダム中央駅だと言われているが、ポーランドのグダンスク中央駅がそうだ、という説もある。約20年後に、グダンスク中央駅も実際に見たが、見ただけでは、参考にしたのかどうか、なんて全然分からない。

   

 中央駅構内を見物していたら、突然、サイレンが鳴った。明石町の溜池のそばで聞いた以上の音量だった。 石とコンクリートで出来た建物内だから、余計に響いたのだろう。

   

 そのサイレンの鳴動は昼間だったが、時刻は、今となってはハッキリとは覚えていない。

   

 現在は、当局が、災害時に緊急事態を市民に報せるという名目で、サイレンが機能するかどうかの確認をかね、市民への不断の注意喚起が目的で、1ヶ月に1度、第一月曜日の正午に鳴動させるらしい。

  

 しかして、その実態は、『 ナチスドイツの侵略を忘れるな 』である。私が中央駅で聞いたサイレンは、ナチスドイツが最初に空襲した時刻に合わせたものだったようである。

   

 このサイレンを鳴らすようになった当初は、毎日鳴動させていた、とホテルの人間から聞いている。 しかし、それが事実かどうかはわからない。

 そのサイレンを鳴らすのは、2020年中にやめることになっているらしい。もう、2020年12月19日だ。

  

 そのサイレンが、名目通り、本当に災害時の緊急用で、テスト及び市民への注意喚起であるならば、今更やめるというのは、腑に落ちない。

   

 もし、やめるとなれば、やはり、現在のドイツに対しての外交的な配慮なのだろうなァと想像する。しかし、本当にやめるのかネ ••••••。

 

 1980年代初頭には、オランダ観光旅行の本には、このサイレンのことに簡単に触れたものを読んだこともあったが、今では削除しているのが大半のようだ。

   

 しかし、ネットでは、数少ないが、このサイレンのことに触れた記事がある。

   

 幼年時に明石町で聞いた、定時でないサイレン鳴動の話しに戻すと、複数回の繰り返しは、今思うに、やはり、何か、事故か事件があったのだろうなァ ••••••。

   

 幼年時代だったから、世の中のことは何も分からなかったし、どういうことが起きているのか、想像すらつかなかったのは、当然といえば当然だ。

 せめて中学生ぐらいになっていたならば、定刻でないとき、特別なサイレンの鳴らし方を聞けば、尋常でない何かが起きた、と推測しただろうと思う。

(2020年12月19日 記)


(筆者略歴)

昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


   

1件のコメント

  • 砿業所のサイレン、神社のサイレン、千年町(暁橋の上)のサイレン、が自分と関わり深く思い浮かぶ場所。
    常磐町にもあった。たしかに明石町にも・・・生活とかかわりのあった地域から離れるほど、その場所はあいまいに、わからなく、そして、忘れてしまった。
    長いサイレン、連続音は、事故や緊急時のもの、不安を掻き立てる音だった。
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    小さかったころ、母は「長いサイレンは、戦争を思い出すからいやだ」と、よく言っていた。
    実際に戦争中になったのかどうかは知らないが。
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    1997年に、鹿島小学校閉校式に参加していた時、浄水場の山から大きなサイレンの音が鳴りびびいてびっくりした。
    音にびっくりしたのもあるが、炭鉱がなくなってもずっとつかわれていたことを知った。
    一瞬タイムスリップしたような気がした。
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    サイレン
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    サイレン


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