河村先生 |千古のみどり
学校でお世話になった先生は、沢山いらっしゃいます。
覚えていますか… 鹿島小学校の上の、小高い丘の上にあった『大夕張カトリック教会』を?
『人は何のために生まれ…そして死ぬのだろう…』
あそこへ行ったら、教えてくれるかも知れない…
そんな思いで教会の門を叩いたのは、私が小学生の頃でした。
それから高校を卒業して大夕張を去るまで、近くに親戚付き合いの全くない私が、唯一いつでも黙って入っていける処が、この教会でした。
そこで当時、こちらも私の大好きな西牟田神父様と共に、生涯独身を通され、ず~っと、地元の人達、子供達のお世話をしていたのが、河村郁子先生でした。
今日で亡くなられて5年が経ちました。
息を引き取られたのは、東京の病院でしたが、その直前、札幌の病院に入院されていた時(そのことも知りませんでした) ある朝、電話が掛かってきました。
聴き取ることが難しいくらい、細く小さな声でした。
聞き返すのが、とても申し訳なかったのですが、
『すみません、良く聞こえないのですが…』
『ごめんなさい…これが精一杯です…私はもう少しで死にます…大夕張時代の子供達に、お別れが云いたいので、連絡を取って下さい。…今、私は黄疸が強く、飛行機に乗れる状態ではありませんが、少しでも収まれば、東京に弟がいるので、そちらで死ななければなりません……。』
というものでした。
時間がせまっていました。
私は、仕事を持っていましたので、数日かけて、出社前と退社後に出来る限りの人に、事情を説明して、「もし行けたら行って、先生とお別れをして下さい。」と連絡しました。
苦しい役割でした。
今思うと、それが私に与えられた役割でした。そのことに深く感謝しています。
後日、神父様のお話ですと、3日間で150人の人が (大夕張の人だけではありませんが) 先生にお別れを告げに行ったそうです。
もちろん、私が知らせたのはそんなに多くの人ではありませんでした。
危篤の人が150人の人と話をしたのです。
その時大きな力が働いて、とても生き生きとされていたそうです。
もしかしたら、このまま直るんじゃないかと思われた位だそうです。
私は3度、病院へ足を運びましたが、いつも疲れ切って休まれていましたので、お話は出来ませんでした。
ホスピスだったので本人の希望で会わせていたのですが、看護婦さんは、あまりの面会人の多さに、とても困惑していました。
最後に行った時は、もう東京へ行かれました。という知らせでした。
東京での現世のお別れの会での先生は、生前、神父様からいただいた白い司祭服を、お友達に頼んでウェディングドレスに仕立て直したのを準備され、
『最後にこれを着せてね…私はこれを着て、神様の処へお嫁に行きます…』
と云われたということです。
そうして、先生の最後の希望の『ひつぎには、沢山の白い百合を入れてね…』
との言葉通りだったそうです。
何故、突然我が家にパソコンが来たのか…
何故、『IT講習』の申込用紙が、ある日会社の私の机の上にあったのか…
ある日飯田さんのHPをのぞいたのか…
(このHPには、先生の事を解ってくれる人が沢山いる)
…すべては今日の日のためだったのでは…
河村先生が、私の手を通して、飯田さんのHPを通して、皆さんに語りかけたかったのではなかったのか…
あの時、お別れを云えなかった人達へ…たくさんの大夕張の先生の子供達へ…
先生のお宅にあった、思い出のアルバムには、たくさんの大夕張の子供達が写っていました。
(2001年10月03日 記)