村山貢 先生の色彩の授業 |高橋正朝 #21
前回、「 電光オズマ 」の稿で、コラージュのことに触れ、村山貢 先生のお名前を出しました。 それで、村山 先生の授業のことを書き始めたら、表題とは無関係な内容の文章が長くなってきたので、その部分は打ち切り、次回、即ち、ここで書くことにしました。
村山貢 先生を初めて見たのは、鹿島中学校1年 F 組での最初の美術の授業でした。 また、先生は、1年 E 組の担任でもあった。
前年度まで、鹿島小学校の教師だった、と気づいたのは、ある授業のとき、小脇に抱えてきた箱を開け、
「 いや〜っ、こういうモノが、この学校にあるとは思わなかった 。素晴らしいネ。すごいネ 」
と言いながら取り出したのが、『 色立体 』だった。 皆さんご存知の、たまご形のアレです。 たまご形の細んだ先端が赤色ですネ。
私は、村山 先生は、以前から鹿島中学校に勤務しているとばかり思っていましたが、上記のセリフで、我々が鹿島中学校に入学した時期に、鹿島小学校から転任してきたことを知りました。
この時期、色に関する授業が、2時限 x3回ぐらいあったような記憶です。 鮮烈だったのは、『目の錯覚』です。
小学生のとき、マンガ雑誌によく載っていた、平行直線が、補助線を描くことで、膨らんだり凹んだり見えたり、同じ長さの直線が、片方が長く見えたり短く見えたりするのは、皆さんもよく知っていることです。
しかし、色にも錯覚が生ずることは、村山 先生の授業を受けるまで知らなかった。 知っている人がいたかもしれないが、F 組の大多数は知らなかった。 それは、村山 先生が、簡単なある実験を見せてくれたとき、クラスの生徒から、「ワー」とか、「オー」とか、歓声があがったことからも識れる。
村山 先生の授業を受けた生徒は、み〜んな知っていることですが、思い出の状況はこうです。
色相循環の授業でした。 中学1年生の美術の勉強ですから、色は24ではなく、12に限定したもので、時計の文字盤のように色を並べたモノです。 9時の方向が赤、12時が黃、3時が青緑、6時が青紫、というアレです。
盤上の色の中心点を通った反対側が、補色。 補色に反対側の色を置くと、色が鮮やかに見える。 赤の補色が青緑、黃の補色が青紫、と言う具合に、村山 先生の説明が少しずつ進んでいきます。
「 無彩色の上に色を置くとどうなるか?」と、教壇に立っていた村山 先生が、背広を脱ぎながら言ってそれを裏返した。 裏地は灰色だった。
その灰色の裏地に赤色の紙を当て、
「1分ぐらい赤色をじっと見るように」
そして、パッと紙を外した。
そこで、「 ワー 」とか「 オー 」とか、という歓声があがった場面になったわけだ。
誰もが、赤色の紙が置かれた場所に、緑っぽい色のモノがみえたのだ。
それで、測量のポールが、赤と白に交互に塗り分けられていることの理屈を知った。
小学生のころ、道路工事や、ダム工事のためと思われる測量作業で、何回も赤と白に塗り分けられたポールを見ていたので、直感的に、測量器械を覗く人には見やすいのだろうと思ってはいた。 しかし、補色がどうのこうのというのは、当時の小学生の知識の外だ。
夕張工業高校の土木科に入学し、測量実習の時間、ポールを手に取ったときにも、村山先生の授業が思い浮かんだ。 背景が緑地だと、確かに、赤と白に塗られたポールは見易かった。
リビアに行ったのは、マイクロウェーブ通信のプロジェクトだった。 通信のことは全くわからない。 私の仕事は、発電機のメンテナンスだった。
専門外だったが、通信設備も概観ぐらいは見学する。 パラボラアンテナを設備している鉄塔は、赤と白に交互に塗り分けられていた。
そのときは、赤と白の配色に疑問は感じなかったが、沙漠の色、即ち、ベージュには、黒と白のほうが、赤と白のそれよりも目立つ。
沙漠に入り込んだとき、プロジェクトの工事に着手する前の先遣隊が目印に残していった、黒く塗ったドラム缶が、土漠や沙漠の景色の中で、よく目立つのだ。 あるとき、先遣隊と別な、本格的な工事部隊の人たちと合ったとき、その人たちも、やはり同じことを言っていた。
12色の色相循環表を見ると、ベージュの補色となると、青と青紫の間ぐらいだ。 理屈に合っている。
だからと言って、沙漠の国だから、鉄塔の色を、安易に黒と白にするわけにはいかない。 人が住んでいる場所は、緑の地だからだ。 それで、リビアでのマイクロウェーブプロジェクトでは、鉄塔の色は、普通に、赤と白に区分けしたものに統一していた。
(2021年1月9日 記)
昭和23年11月大夕張、明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。
以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。