坑内にかかる盤圧 | Kawauchi Masami
今日は 坑内でないと 分からない 出来事 書いてみますね。
写真に写っているのは、採炭現場で天盤を押さえるカッペと言う道具です。
丸いピンと平べったいピンの、2本のピンで止めて行きます。払い(採炭現場)が進むと、後ろのカッペを外して、前に付け替えます。丸いピンだけなら、『お辞儀』します。お辞儀しない様、平べったいピンを入れます。
この写真の柱は、私見たこと有りません。 私達の時の柱は、『水圧鉄柱』を使っていました。『ガン』と言う金具を、鉄柱に付けて、バルブを握ると、水圧鉄柱が、凄い力で伸びました。
水圧鉄柱の前は、『油圧鉄柱』が有りました。油圧鉄柱は、トラックのジャッキーを、大きくしたみたいで ハンドルを動かすと鉄柱が伸びました。 伸ばすのに、時間がかかりました。
その前がこの鉄柱かな?
『摩擦鉄柱』って聞いたこと有りますが、見たこと有りません。
水圧鉄柱は、各、払い毎に、タンクと高圧ポンプが有りました。なんて言たって、伸びる速さが、早かったです。狙った所に2人ぐらいで、押さえていて、ガンを握ると、スーと、伸びました。
この写真の鉄柱は、最新の水圧鉄柱です。ジュラルミンで軽かったですよ。
油圧鉄柱の半分くらいの重さでした。自動ですぐ伸びました。
懐かしい写真です。
坑内には考えられない、盤圧がかかっています。
『山はね』は、一瞬で3mぐらいの坑道が1mぐらいに(場所や坑道によっても変わりますが)縮むのです。人がいたら、たまりません。私はこう言う現場、通ったことが有ります。前日、通れた坑道が、かがんで通りました。
『山鳴り』は、おそらく断層がズレたのでしょう。坑内のそこの坑道全体に ドン、と言う音がします。食事の時は、弁当を体で隠しました。隠し遅れると、弁当に胡麻を降った様になりました。それでも貴重な弁当ですから、食べましたよ。
山鳴りは、住宅街でも分かる事が有りました。『ぐら』 と、一回だけ、小さく揺れます。地震の様に『ぐら ぐら』とは、来ません。結構頻繁に鳴っていました。 南大夕張、青葉町の私の家では、結構、感じました。
地震と、全然違う揺れです。『ぐら』っと一回、坑内に割れが入った感じでした。南大夕張は、住宅街と坑道が、近かったのでしょうか?私には分かりませんが、大夕張では、揺れを感じた記憶が、有りません。
坑道の柔いところから、盤圧で、ジワジワ何ヶ月もかけて縮んできます。坑道の上の部分を直すのを、拡大 と言いました。 坑道の下を直すのを、盤打ちと言いました。
結構、しっかりした坑道で、長い間、全然大丈夫だった坑道に、払い(採炭現場)が近づくと、坑道の坑木が潰れ、金枠も見事に曲がり、拡大作業で新しい金枠と取り替えていました。
下からの盤圧もすごく、線路の下の盤打作業も大変でした。潰れるのが先か、拡大作業が先か、と言う感じでした。払い(採炭現場)が、通り過ぎると 盤圧はおさまります。
坑道で、昼休みの休憩中、結構大きい地震に遭ったこと有ります 。坑道が、グニャ グニャ 、曲がった様に見えましたが、恐らく恐怖でそう感じたのかも知れません。ただ皆んなの行動は、じーっと、天盤を見るだけで、動けませんでした。
夏になると、凄い数の羽のついた虫がいる所有りました。
おそらく坑木に付いていて、卵が産まれたのではないかと思います。 私は、よく昼休みに、紙に油を付けて 、ヘルメットの電気で照らして、虫を取っていましたね。
(2020年11月1日 記)
(筆者紹介)
昭和29年6月生まれ三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務。