吹雪のなかでの登校下校 |高橋正朝 #22 

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 私が、鹿島東小学校の低学年だったころの大夕張の冬は、ずいぶんと寒かった。

  

 私の年代の人は、皆、経験していたことで、『 ふるさと大夕張 』に書き込んだことの繰り返しになるが、頬骨に染み込むような寒さのときは、薄眼にし、眼を普通に開けようとすると、瞬間的にくっついていたまつ毛がパチッ、という感じで開くのだ。

    
 真冬の吹雪の日は、向かい風だと、まともに息ができない。それで、登校中の我々は、向かい風に背を向け、後ろ向きに歩いていた。

 

 みんな小さな子どもだから、風に押されて、歩みが のろくなってしまうが、これはやむを得ない。結果として、学校には遅刻してしまうが、先生に注意されたり怒られたりした生徒はいなかった。

   
 当時は、自動車らしい自動車はバスぐらいで、トラックが走るのを見ることも殆どなかった時代だから、交通事故の心配はゼロだった。 と、いうか、鉄橋の明石橋ができるまでは吊橋だったから、自動車が通るわけがなかった。

    
 飯田さんが編纂した年表には、「 1956年( 昭和31年 )9月16日、山内線バスが砿業所〜明石町を運行 」と、あり、鉄橋の明石橋が完成したのは、その少し前で、私が東小学校2年生のときである。

    
 バスが通行した時期から、トラックの往来もたま〜に見かけるようになった。乗用車なんて見たことはなかった。そういう時代だから、後ろ向きに歩いても何の問題もなかった。ただただ、寒風が頬骨に染み込み、涙がでてきたりハナが垂れてくるのが、東小学校に到着するまで断続した。

   
 涙は手袋で拭ったが、ハナは、すすり込んで胃の中に収納した。この部分を読んだアナタは、キタナイな、と思うでしょうネ、きっと。

   
 あまりにも寒い、て言うか、シバレルので、学校に到着して、先生の指示で、クラスの列ごとにストーブの周りに集まって暖をとりながら授業を受けた。これは、鹿島中学校に通うようになっても同様だったのは、皆さんご存知のとおり。

   
 東小学校4年生ぐらいから、寒さがチョッピリ和らいできたようであったが、それでも、風呂帰りの日本手拭いを寒風にさらすと、ヨレヨレながら、チャンバラするぐらいにはなった。

   
 ここまでは、大夕張ですごした私と同年代の少年は同じ経験をしている。垂れてきたハナを胃の中に収納するのは別にして ••••••。

      
 朝、登校し、ストーブの周りで暖をとったときに、全員ではなく、個人差がでてきた。シモヤケの影響である。 シモヤケになりやすいのは、ご存知のように、耳、手の指、足の指である。

   
 私の場合、ストーブで暖をとるまでは別段どうってことなかったのが、身体が温まってきたら、顔が、痛いのと痒いのとが混じった感覚におそわれるのだ。痛いのと痒いのとが半々というより、痒いのがまさっていると言っていい。特に、耳がひどかった。我慢がきかず、爪でガリガリ引っかくのだが、痒みは治まらない。 授業が2時限ぐらいすぎると、痒みは治まってくるのだが ••••••。

   
 シモヤケになる生徒は大勢いたが、全然悩まされない人もいた。この個人差は、いったい、どういうものによるものなのだろか ••••••。


(筆者略歴)

 昭和23年11月大夕張、明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。

 以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


1件のコメント

  • 吹雪の日、前が真っ白で見えなくて、目をつぶって空を見て雪を顔で感じて歩いたり、後ろを向いて風を背中に感じながらあるいた。確かにそんな日があったなあ。

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