奥鹿島の『三時間耐久レース』|Kawauchi Masami
昭和56~59年(1981~85年)頃、明石町から開拓の奥、農家を辞めた地主さんに土地を、ただで借り、自分達でコースを作って、50ccバイクで『三時間耐久レース』をしました。
場所は奥鹿島分校からあと、橋を渡って500mぐらいの所です。
地主さんの名前は忘れましたが、「元は南部の下夕に開拓で入っていて、ダムで沈むので、大夕張の開拓の奥に来た」と、言ってました。
土地を貸してくれたお爺さんは、75歳ほどの1人暮らしの方で、「人が集まってくれて嬉しい」と言ってくれました。当然、大会の日だけで無く、けっこうみんな、練習に来ていました。
『三時間耐久レース』は、4人1組で、3人がライダー。1人が約1kmのコースを、一周毎にチェックします。
だいたい女の人が多かったです。冷静ですから。
私達ライダーは、熱くなってて、何周回っているか分かりませんでした。確か優勝が、120周ぐらいだったと思いました。
遠くは、美唄から15組ぐらい来てました。
耐久レース面白かったですよ。
最初は50ccなら、どんなバイクでもよく、自分達で整備したバイクを走らせました。
しかし、年々、各チーム優勝したくて、中には新車を買って登録しないで、そのままレースに持ち込んだチームもいました。
私は兄貴の500kmしか走っていないバイクを下ろしました。
素人の整備ですから、途中、エンジンから煙が出たり、オーバーヒートして止まってしまうバイクや、2サイクルオイルが切れて、止まってしまうバイクも有りました。チェーンが切れるもの、ひどいのは、座席シートを落とした人もいました。
ピットでは、ガソリンを補給しました。みんなは、ポリ容器にノズル付けて、タンクを覗きながら、こぼれない様に補給してました。
私達は1L 無くなる時間を調べて、当時1Lのコーラの瓶が有ったので、それを、もろに、逆さまにして、ガソリンの補給時間を短くしました。
レースに出場した人は、足腰、1週間痛かったですね。
子供のレースも有って コースを完走すれば 完走賞がもらえました。
昭和56年〜59年の4年間、最後は、昭和59年7月1日。 最後のレース後、レース用バイクを積んだ4tトラックを誤って、崖から落としてしまい、それでレースは、辞めました。
その時の記念のメダルが有ります。
優勝争いはするのですが、優勝は出来ませんでした。
(2021年1月17日 記)
(筆者紹介)
昭和29年6月生まれ三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務。