湯浅純治先生のこと |Kawauchi Masami

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湯浅先生との出会い

 鹿島小学校で、湯浅先生を初めて見たのは 3年生から4年生のクラス替えの時です。

 私は1・2・3年生の3年間、女の佐藤良子先生でした。

 その年、私は4年桜組で、校舎は、新校舎3階建ての1番下の一階でした。

 職員室は2階か3階でした。私達は、玄関の横のクラスでした。私達は入り口の戸を開けて、降りてくる先生を見てました。

 男の先生でした。顔を見ると30歳ぐらいの髪を少し伸ばして、ポマード付けてオールバックにしている『おっかなそうな』先生でした。(私は心の中で『嫌だ〜』と叫びました)

 教室に入った先生。私が想像してた怖い先生では無く、逆に優しい先生でした。

 

先生が作る歌

 鹿島東小学校に在籍していたころのことはわかりませんが、鹿島小学校では、ピアノが上手でした。

 縦型のピアノ、私達桜組の教室の前にいつも有りました。 先生のオリジナル曲も、何曲も有って、10曲ぐらい 教えてもらったかな。

 D君の話を思い出します。彼が小学校5年生の時、お父さんが、炭鉱事故で亡くなりました。

 湯浅先生は、すぐ歌を作ってくれて、父兄参観日の日、お母さん達の前で、私達は歌いました。

 お母さん、豪泣きしてました。

 

 その時の歌の詩が、

 題 『僕は負けないぞ』

  僕は負けないぞ〜 くじけはしない〜

 どんな事が〜あ〜った〜て  父さんは いないけど

 男だもの〜 明るく 生きるんだ〜

 負けないぞ〜 僕は負けないぞ〜

 

 2番は、女子生徒が、書いたのですが、忘れましたが、

 

 僕は 泣かないぞ〜 めそめそ しない〜・・・・ あとは、わかりません。

 

人気の先生 

 いい意味で、湯浅先生は変わっていました。責任は、先生が取ると言う様な、私達には 凄くいい先生で、父兄からも人気の先生でした。

 なんか、ドラマになりそうな先生でした。怒った事なかった様に思います。 今じゃ、考えられませんね。

  スキー、買えないと言えば、家まで来て親とかけ合ってくれるし、八百五十には、お泊まりスキー数回、希望者を全員連れて行ってくれました。

  テイネオリンピアにも日帰りで、一般客と一緒にバスツアーに連れてってくれました。

  ニセコの『ジュニアスキー大会』にも、出場させてくれました。

 あるときは、クラス希望者全員、海水浴へ連れていってくれました。テントも人数分、健保会館から借りて、洞爺の向こう、小幌という所まで行きました。生徒の男親が、1人手伝ってくれました。ほとんどの子供が、海を見るのは初めてでした。

 そんな時代でした。任せなさい、と言う感じでした。

  修学旅行では、みんな寝静まった温水プールヘ夜10時ごろ、連れてってくれました。

  先生は、教室でタバコ吸っていました。無くなると私達、『いこい』を、買いに行かされたこともありました。私が学んだ一つに人に優しく、正直って事かな。

 

学校での肝試し

 小学校に泊まらせてくれました。みんなで、肝試ししたり 、昼間、先生が体育館に、ある物を隠しておいて、それを探しに行くとか。

 1番怖かったのは、鉄道の踏切近くに有った、古い校舎の階段を降りた所に有ったトイレ。帰りは階段を登ると、木造の廊下が有って、通るとギィ、ギィと、きしむ音が、怖かった。

 泊まりは6〜7人で、職員の当直室です。大体、6〜7人がメンバーかな?湯浅先生が、当直の日は、職員室の黒板に予定が書いてあるので、前もって分かってました。

 こんなことがありました。11月の中頃、まだ雪が降っていませんでしたが、寝る時スキーの話をしながら眠りにつきました。そして、朝、障子の隙間から屋根に50cmぐらいの雪が積もっているのが見えました。すぐ起きて30分かけて、家に戻り、スキーを持って来て遊んだこと有りました。

 中には頭の良い子もいましたが、私ともう1人、先生に、「普通頭の悪い子は、教室の片隅に居るものだけど、お前達は違うな!」と、よく言われましたよ。

 千年町の先生の家にも泊まりに行きました。 名目は勉強会と言う事で、熱心に教えてくれました。

 夕食は得意のインスタントラーメンでした。 先生の家に泊まった時は 奥さんが作ってくれました。 前に鹿島東小学校の湯浅先生の若い時の4人での写真に奥さんいましたよ。

 

 他の先生なら面倒くさそうな事も、進んでやってくれました。 困っている人いたら、ためらわず助ける、そういう先生でした。

クラスで教わったこと

 クラスも、男女とても仲が良かったです。

 湯浅先生が、坂本九のジェンカのレコードを買ってくれて、体育館でジェンカを踊りました。

  音楽の時間も、4組に分かれて、ソプラノ・バス・テノール・アルトに分かれて、授業受けました。私はテノールでした。

 百人一首も教わりました。教室にレザー巻いた物3本くらい有って、放課後やりました。

 『突っ込み』『中堅』『持ち』と、1チーム3人で、10チーム位有ったかな? 各2チームが対戦。同時に5つの対戦が始まります。読み手は湯浅先生でした。レザーは先生の自腹でした。

 バトミントンのダブルスも、教えてくれました。バトミントンの羽根は、本当の鳥の羽根がついたシャトルでした。

ピアノは、私達子どもが運んで、教室にいつも置いてありました。リクエストしたら、なんでも弾いてくれました。作詞、作曲もするし、ピアノ上手でした。『音楽とスポーツは、繋がりが有る』と、教えてくれました。

 

 

私とニックネーム

 私のニックネーム、『カワズ』でした。

 カワズ 飛び込む 水の音  のカワズです。

  小学生の時、湯浅先生が、付けてくれました。「なんでも諦めないで、やりつづける姿を見てて、お前は、柳に飛びつくカワズみたいだ」と言って、付けてくれたニックネームなんです。

 今でも『カワズ』って呼ばれます。 私は15歳くらいから、一つの信念が有ります。それは、今でも実行しています。『決断 即 実行』です。

  決断まで時間かけて考えて、決めたら即、実行、しました。 カートも『即、実行』でしたね。


(筆者紹介)

昭和29年6月生まれ三男として 南清水沢で生まれ、2歳の時、緑町に、のち春日町で18歳まで大夕張で暮らす。昭和48年、一時大阪へ転出するが、昭和50年帰郷、南大夕張鉱業所ヘ就職し、平成2年3月の閉山まで勤務。

 


 

 

思い出の記

 

 

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