昭和40年頃 昭和33年11月4日、明石町駅に旅客用地下歩道が完成したという。 昭和35年に明石町の高台に鹿島高校(のちに夕張東高校)が建設された。 大夕張鉄道で通学し、この地下歩道で線路の下をくぐり、再び踏切で線路を渡り、高台にある高校を目指して坂道を登っていった高校生達も数多い。 白黒写真に着色した画像 明石町側にでる地下歩道の出入り口。ダムの湛水状況によっては、現在でも、遺構を見ることができるらしい。
『海も好き』さんのツイートです。
ホーム側の出入り口です。
自分は、この現役の時に、この通路を利用した記憶は定かではありません。
貴重な画像ありがとうございます。
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明石町から大夕張の幼稚園への通園での思い出が有りますね、汽車の窓を開けてちり紙を振っていた記憶が懐かしい!
『汽車の窓からちり紙遊び』
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『ちり紙』という言葉もだんだん使われなくなってきている?。
今は、世の親も「ちり紙もったかい」でなく、「ティッシュもったかい」なんだろうな。
汽車に乗ったら、必ず『ちり紙遊び』、やっていましたね。(*^_^*)
昔のちり紙はティッシュと違って、固めででした。
ちり紙2枚重ねて、長方形の短辺の端から1センチ幅位に手で切れ目を入れていき、端にくるとまた折り返して、切れ目を入れ・・・・繰り返す。
って、説明が難しいけど、そうすると、ちり紙が長い紐のようなものになります。
それを汽車にのったら必ず、作ります。
座席についたら、力を入れて窓を開け、(親からは必ず「あんまり開けるんでないよ!」と声がかかります。)小さく開けた窓から、1メートルほどになったちり紙を窓からダランと垂らします。
そして、『ポッ!』と汽笛がなり、ガタン、と一揺れ、汽車が動き出すと、垂らしたちり紙も、風に揺られて気持ち良く、吹き流しのように、そよぎ始めます。
汽車のスピードが上がっていくと、強い風で、ちり紙が、いつちぎれてしまうかと、ハラハラドキドキでした。
その遊びも、大夕張から明石町を過ぎて、汽車がポーッと警笛を合図に、トンネルに入ると、煙が窓から入ってきて遊びどころでなくなるので、慌ててちり紙を取り込み、窓を閉めることで、おしまい、となるのでした。
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