宝沢の築堤を行く列車

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白黒写真に着色した画像
宝沢の築堤を大夕張駅に方面に向かって行く列車。築堤の斜面に、泉町(錦町)から鹿島小学校に向かう小道が見える。
海も好き
海も好き

Masaさま
ブログ「煙の記憶」管理人の『海も好き』でございます。
 
この写真を撮ってる立ち位置は錦町だったでしょうか?SLが走る築堤の向こう側が宝町だったでしょうか?
何だか記憶がとても曖昧なのですが、宝沢と呼んでた気もします。
大夕張と千年町の間で間違いないと思うのですが・・・
住民の方々は、この坂を上り下りしてたのでしょうが、冬の除雪とかどうしてたのでしょうね?
昭和48年秋頃の撮影だと思います。

   (2020年12月8日)


↓煙の記憶のURL
https://umimosuki623.blog.fc2.com/

Masa
Masa

これはまた貴重な写真をありがとうございます!
この立ち位置は、当時はすでに鹿島錦町になっていたとおもいますが、ちょうど、泉町から坂道をあがってきたところ?
宝沢を埋め立ててつくった築堤。向こうに建物が見えています。宝町の建物らしいですね。
正面に坂がはっきり見えています。
自分の住んでいた富士見町方面からは千年町に行く時、3つのコースがありました。
①岳富町の商店街を通っていくコース。一番よく使いました。
②鹿島小学校の裏から泉町の中を通って宝沢を迂回してコース。おそらくその道の途中からこの写真はとったんじゃないかと思いますが、どうでしょう。
③そして、鹿島小学校から線路にそって、この築堤沿いの小道をいくコースだったと思います。道路というよりも、小道という表現がぴったりだったような気がします。冬は雪をこいでいくのたいへんだったでしょうね笑。泉町の生活道路といった感じらしいです。
昭和26年に鹿島東小学校が出来るてから、この地域は鹿島東小の通学区域になったらしいですが、それまでは、この道路を通って鹿島小学校に通ったという方もいるようです。
上の写真は下の道より、錦町寄りの気もします。このような道が築堤沿にいくつか作られていたんでしょうね。

(2020年12月9日)

海も好き
海も好き

詳細な解説ありがとうございます。
たぶん、➁でしょうね!何となく記憶が蘇って来ましたよ。
久々湊眞一さまの写真がとても分かり易く、そこを真横から撮ったのだと推察しました。
何かのキッカケで、忘却の彼方にある記憶がイッキに蘇るって事がありますよね。
 
当方の「煙の記憶」ブログの鉄道写真、殆んどは昭和47~50年頃に撮ったものです。
実は押し入れ整理の流れのなかで廃棄処分寸前でした(笑)
友人からネガを直接にデジカメ撮影しデータ化したら・・・のアドバイスを受けて、
ついでに始めたブログでした。
その過程で大夕張の頃の写真を見るにつけ、懐かしがったり記憶喪失だったり(笑)
大量のネガは処分しなくて良かったと思い、友人には感謝してます。
発掘作業は道半ばですが、また何か発掘したらUPしますので。

(2020年12月9日)


 
↓煙の記憶のURL
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Masa
Masa

しばし、海も好きさんの写真と、久々湊さんの写真を見比べてしまいました。
よーく見てみると、2枚の写真ともに、宝沢の鉄橋の橋脚が写っていました。
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上空から見るといいんじゃあないのかと、ふと思いつき、空中写真を見てみると、昭和52年の写真に見やすく写っていました。
これだと街との位置がわかりやすいと思いました。
そうすると、海も好きさんの写真の向こうに写っているのは、岳富町?(注…実際には、岳富町より宝町の住宅が高い位置に見えているのかもしれません)
いずれにせよ、自分が思ったより、北側にあったようです。
実際どうみえたのか、確かめる記憶は、ないわけで。
こうして写真で残されているのは、本当に貴重なことですね。
あらためて、感謝です。
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おかげでちょっとすっきりしました。
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↓昭和52年の国土地理院の空中写真の一部です。
道がよく見えます。

(2020年12月9日)

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