私の大夕張時代 | 長谷川ヒロコ
ここに寄稿してくれたのは、私の叔母です。
昭和8年生で、今年88歳になりました。字も達者で大判の原紙に細かい字で書いて送ってくれました。
子供時代から20代までを大夕張で過ごし、昭和28年から鹿島東小学校の教員として勤務していました。
私が幼かった頃(昭和34年ころ)、富士見町線路脇の住宅で、一時、同居していた記憶もあります。
私の大夕張時代 【長谷川ヒロコ】
私の大まかな記憶です。少しでもお役に立てればいいのですが。(6.70年前のことですから)
私は、共学や、通学区域の変更等で7校分は知っておりますが、長谷川家では、妹が南高へいっただけで、その下の弟・妹は、中学校から札幌へ出てしまいました。
私は南高(清水沢に新設になり)4ヶ月通って、南高一期生です。
女学校で入って、大夕張から本町まで6年間汽車通学しました。
大夕張線で、大雨の日に脱線(トンネル前で)しかかり、歩いて戻ったこともあります。
何せ、石炭車に客車をつなげてのことなので・・・。
炭坑関係者は、通学費は無料でしたが、私たちみたいな公務員家庭のものは、高い通学費を払ってのことでした。
弟がときどき電話をくれます。
その時の話では、弟は、鹿島東小一年の時(昭和32年)に、一週間で富野小へ転校したとのこと。
私は、鹿島東小学校2年生の担任で、当時一学級55名いました。
その中でも、身長90センチメートル程の小さな子で、人一倍口が達者で元気な子がいたことを覚えています。
私もまもなく富野小学校に移動、2年経ったころに、同じ学校に、親子・姉弟はダメと云うことになり、南部小学校に移動になりました。
その時に飯田家に2年間お世話になりましたの!!
有り難かったです。
(2020年11月16日 記)
昭和30年ころの、鹿島東小学校の先生方