旭沢橋梁 大夕張炭山 11:40発

22305

昭和45年

白黒写真に着色した画像
大夕張炭山からやってくる列車、明石町側から

山の中に消えた汽笛 【長谷川潤一】

 昭和45年くらいに大夕張炭山駅11:40発の列車をとったものです。

 大胆な混合列車の編成(人も石炭も同じ扱い)という、いかにも北海道の炭坑の鉄道という写真です。

 のんびりした昼下がりのサイレンと汽笛の音、山の中に消えていったのを線路に座って聞いていました。


旭沢橋梁  【飯田雅人】

 清水沢駅に向かう間、この旭沢橋梁をはじめ深い沢を何度も通ります。高さはかなりあったものです。下をのぞき込むと遥か下に沢の水が流れていました。

 この位置からみると蒸気機関車の迫力に圧倒されます。走ってくる列車を、視点を低くして、まさにこの視点から列車を待ち構える。「くるぞ、くるぞ」という期待感、目の前を激しい音を立てながら通過する列車、去っていった後の余韻・・・。そんなことまでも頭に浮かんできます。

 さて,この旭沢橋梁ですが,私の祖父の長谷川安造が教員として大夕張に赴任して2年程たった昭和15年、明石町の辺りの荒地を開墾耕作に入った時の事を、次のように書き記しています。
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・・・「世は一日一日と大戦争に近づいている。この頃の私の家で家族の栄養,物資不足補いの意味で養鶏,養兎,山羊飼育等を試み,自給自足方針の実施に入る。(中略)7月末,夏休みに入ると直ぐ,家族共々笹刈りから荒地開墾をし,秋大根の種まきまで,母には留守を頼み皆で耕作にはげむ。秋に入り収穫の大根運びはこれまた危険を伴う仕事であった。歩く道なく高さ25メートルの鉄橋を渡らねばならなかった。それぞれ背中いっぱいに大根をのせ,命がけの思いで渡ったものだ。」


旭沢橋梁の思い出 【真田裕一】 平成10年11月23日(月)

 あの鉄橋には、大変思い出がありまして、大夕張鉄道がなくなる直前、僕は鹿島東小学校の4年生で明石町に住んでいましたから、通学は、汽車に乗ってあの旭沢橋梁を通って千年町駅で降りるのでした。

 恐ろしく深い渓谷で、大人になった今でも、見下ろすと恐怖で目眩がするのでした。

 しかし、当時の小学生の間では、とんでもない遊びが流行っていて、汽車が旭沢橋梁を通過するとき、おもむろに列車のドアを開けて(何故か走行中も開いたのです)、手すりにつかまって外にぶら下がるというものです。

 つまり列車の外側で宙づりになるという、一種の度胸試しです。

 今だったら、即刻PTAにねじこまれ、鉄道関係者は大騒ぎになるとことろです。なにより、よく事故がなかったものだと思っています。


1件のコメント

  • 昭和48年、旭沢橋梁を撮影した『海も好き』さんのツィートにリンクしました。
    様々な角度から撮ったSLの姿が見ることができます。


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