祭りの境内(座談会:お祭り)
昭和40年頃、神輿と神社
大夕張のお祭りについて,大夕張に長く住んでいた方々の座談会。大夕張で行われていた山神祭の様子がうかがわれます。(引用は「ふるさと誌大夕張」(平成9年発行)からです)
その頃子供達も増え、お祭りなどかなり盛大にやったと思うのですけれども、お祭りの思い出をお聞かせください
一番人口の多いときといったら、それこそ各町内から御輿のほかに、山車を出して、全部鹿島小学校のグラウンドに集まりました。
小学校の上の大夕張神社から所長が馬に乗って降りてくるのです。お御輿と一緒に。
それから街の中を練り歩いたものです。
ぐるっと各町内を回って帰ってきて,自分の町内でいろんなことをやりました。
大きな道路には全部、提灯のようなものに、絵をかいたり、歌を書いたりしたものが飾ってあって、神社の上までずっと続いていました。
神社に上がる両側には出店がずっと並んでいて、池のところに太鼓橋がかかっていました。
当時は大勢の子供たちがいましたので,みんなお祭りにでられたわけじゃないのです。私は選ばれましたが。
みんなで山車を引っ張って歩きました。
今は車ですけれども、当時は荷台みたいなものをみんなで引っ張って「あら、よいよいよい」とか言って、練り歩いた記憶があります。
各町内の女の子みんなに着物を着せて、要所要所で踊りを披露してご祝儀をもらっていました。
山車をつくったり、踊りの花吹雪とか、桜の花形を木に、はっつけたりと、だんどりを大体10日くらい前から始めて盛大でした。
あの飾りといったらすごかったですね。
各町に青年会というのがあって,会員のみなさんが方が主力になってやってびっちりやっていました。
昔のお祭りは5月11日・12日・13日でしたが、大夕張では、5月10日を過ぎても雪がふることがあるので、1ヶ月延ばして6月にしたのです。
そうしましたら、11・12・13日で大夕張のお祭りが終わると14・15日は札幌祭りですから、今度はそこにお祭りをもっていったり、鹿島のお祭りというのは,しょっちゅう変わったのです。
最後は日曜日をはさんで前後とか。だから山神様も怒ってしまったのですよ。
本来のお祭りの意味とは違うんですよ。
北炭はいまだに5月11日・12日、これは,変えていません。
北炭のある方ならいいのですが、大夕張は雪が降るから5月のお祭りというのは無理だと思いますよ。
お祭りといったら,私は父に怒られて室(ムロ)に入れられた記憶があるのです。
お祭りのときは,竹を細く切ったものに花を貼り付けた花飾りが各1軒1軒に5、6本配られ、各家庭で軒下に飾っていました。
きれいなものだから、私が小さいときに「あら、おねえちゃんいいね」と言われて、通った方に上げてしまったのです。
そうしたら、うちだけ飾っていないものですから、連帯意識というのですか、あの当時門馬というですけれども、家にないから父がすごく怒ってしまって、そういう記憶があります。
花飾りは毎年いただいいていたようです。
花飾りは三菱の会社が町内会を通して各家庭に配っていました。
お祭りでは,男は相撲大会とかに出て小遣いをもらったりしていましたが,女の人にも何かありましたか?
鉛筆とかお菓子をもらったような記憶があります。
ただ、お祭りに出るだけでもらえたのですか?
そうです。
賽銭とか、踊りをすればご祝儀をもらうでしょう。
それをある程度分けていたのではないですか。
炊き出しもやっていました。主婦会の各班の方が。
炭鉱が最盛期の頃は、全山挙げてお祭りをやっていましたから。
栄町3丁目の道路を山車が通っている写真がありまして。それを誰かが15周年の日「炭鉱の閉山故郷まつり」に、写真館から借りて,飾った記憶があります。
小学校のグラウンドにはサーカスなども来ていましたね。
サーカスはお祭りのときですか。
相撲の千代の山一行が来たのはお祭りのときでしたか?
相撲はお祭りと関係なかったかもしれませんね。
相撲は昭和32年8月に会社が呼んだと記憶しています。
会社は文化事業費とかいって、助成金を出していましたから。助成金は石炭の出炭量で決まり、1トン当たり3円で今年はいくら採れたから何百万だよと。それを各町内会に分けたり、会社でもってお相撲さんを呼んだり、そういうお金に使っていました。