大夕張は遠い昔|橋本明夫

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昭和61年(1986年)7月11日~13日 大夕張


いつか訪ねたいと思っていた「大夕張」。やってきました。その日が。

空の旅は快適そのもの。千歳空港は立派だ。空港ターミナルから千歳空港駅へ。ホームで特急電車を待つ。『寒い』。弁当を買いながら聞いてみる。「いつもこんなに寒いのですか」

「今年は特に寒いですよ」という。機内放送でいっていた。札幌 くもり 17度。

新夕張(元紅葉山)で乗り換え、夕張線。一両しかない赤い電車、何人も乗っていない。清水沢で下車。線路、駅、街並みは変わってない。大夕張まではバスで30分程。一時間に一本ぐらいあるから便利だ。

途中『坑内員募集 三菱南大夕張』の看板。今でも募集しているのだろうか。

道路外側に上から赤い矢印。雪のための印だろう。当たり前のことが関東の者には珍しい。

大夕張千年町に着く。相馬旅館(志村菓子パン並びで3軒程上に位置する)へ荷物を置き、すぐ街を見に行く。

考えていたより大夕張はせまい。それにしても町がなくなる様子が分かる。どの家も傾いてる。壊れてる。

宝町は昔の住宅が残ってる。今も住んでる。左側は錦町。家並みはない。

小学校へ向かう。宝沢?といったろうか、左側に並んでいた店が、今は右側に。その店も殆ど空家で傾いている。

小学校。今は鹿島小、中学校となっている。グラウンドは昔のままだ。鉄棒・バックネット・広いグラウンド。

小学校の前の道路に赤く錆びきった歩道橋があるのにはびっくり。犬の散歩の人が渡っている。

駅前、街並みは同じ。緑町詰所あり、郵便局が立派すぎる。外の建物が殆どこわれそうなのに。

鉄道はないが、駅舎は残ってる。鹿島文化センターとなってる。緑町・栄町・弥生町・代々木町、昔の建物はない。わずか栄町と代々木町に建て替えた住宅がある。郵便局の人が自分の顔を覚えていた。「春日町の人でしょう」と。『嬉しい』

中西豆腐店、藤木精米所があった所から春日町を見る。何もない。ただの原っぱだ。下に降りようとするが、背の高い草が多すぎてひと苦労。春日町南7の1に立つ。基礎ものこっていない。

川は昔のままだ

流れが同じ。岩が同じ。とろ場が同じ。

中島は無くなっていた。イソジロの沢から人が来る。化石を探しに沢へ入って来たとのこと。

下(シモ)へ行く。元の釣り場。誰か釣りをしている。元大久保組の人とのこと。川が濁って釣れない。上流で道路工事をしているとのこと。この前は玉ねぎの袋に半分ぐらい釣れたと話してくれた。明日の朝早く釣りに来ると、別れた。

住宅のあった場所一面きれいなお花畑と化している。いろいろな花が、住んでいた人達が残したものだろう。会館のあった場所が分からない。あまりにも遠い昔に成り過ぎた。


4時半に眼が覚める。サイレンが鳴る。釣りの仕度をして春日町に出かける。歩いて30分程かかる。釣りを1時間と少しやったが、一度も引かない。やはり水が濁っているせいだと思う。納竿して春日町南7の1へ、また行く。写真を撮る。大きい木が昔のまま残っている。

大夕張駅の所へ来たら、サイレン6時半の合図。あとは何時に鳴るんだっけ。

7時14分発、清水沢行(昔の汽車の発車時刻)。大夕張駅前バス停にぞろぞろと高校生が集まってくる。人数を数えたら25名ほど。大勢いると感心。嬉しくなる。

朝食を戴いてから、今回の目的、父の墓参りに出かける。三軒ある寺で一番右の禅宗の寺 大聖寺を訪ねる。住職が出かけるところなので、ゆっくり話をできない。墓へ行く道を教えてもらい、山へ入る。イタドリや他の草が人を寄せ付けない。訪れる人も少ないのであろう。草を分け入っていくと、左に石碑が見える。そろそろだなと進む。草が深く熊でも出てきそうな山だ。やがて右側に火薬庫の小屋。まだ進むとまた火薬庫。これからはどうにも草が多くて進めない。引き返す。石碑のあったところまで引き返し、斜面を登ってみる。つづら折れに道らしきものがある。墓がいくつか見えてきた。ここに間違いないようだ。笹藪の中に木碑が立っている。殆ど読めない。倒れているものを集めて重ねてあるものもある。父の木碑が分からない。持参の線香に火をつけ合掌。山火事にならない様火の始末をする。

帰り道、迷わない様に降りてくる。正に『けもの道』だ。

沢で蕗を取り、宿で煮てもらう。美味しい。昔の味だ。

旅館の奥さん坂井(門間)富美子さん、一級上、中学の先生の話をすると覚えてる。

車で生協へ行くと云う。歩いても10分ぐらいのところなのに。それでは家へ『じゃが芋』を宅急便でと、一緒に出かける。ほかの店はさびれっぱなしなのに、生協は派手に品物を置いている。間口は変わらないが、奥が深くなった。緑町住宅まで増築した様。

生協の前に買い物に来た乗用車の列。今日は売り出しだと云う。会計前だから会計日(14日)は昔から変わってないとのこと。

じゃが芋は内地物だというのでやめ、夕張メロンにする。全国に有名になった。東京ではとても高くて買えない美味しいメロン。

また、町を見て歩く。食堂 静 (元池田屋)で昼食。カラオケもある。

午後、宝町から川を写す。鹿島橋も写す。鹿島東小学校の看板が残る。学校跡、劇場跡がどうにもわからない。『つり橋』への道をみたが、すごいガケになって、とても入れない。川につり橋跡コンクリートが二基残ってる。川の向こうに中学校へ通った道が見える。

大夕張の住宅は南大夕張に移すため殆ど無くなるという。住宅が安く売っているという。二軒で5万円で売買されたとのこと。別荘地としてよさそう。

駅前の道、どんどん奥へ工事して、幾春別に抜ける道に。景色が最高の観光道路になると云う。

解説(大夕張は遠い昔)|橋本明夫

 平成2年(1990年)12月3日


 この時は寒かった。これが北海道の夏だったかと、二十才になる次男の息子に読んで批評してもらう。

「バスが一時間に一本で便利なの」とくる。

「そうなんだ。その時刻に合わせて出て行けばよいのだから」都会の様に出て行ってバスを待つのと違う。

赤く錆びきった歩道橋

その後きれいに。鹿島文化センターも塗り直してある。壊れ傾いていた元病院の跡形もない。偉い役人が視察で通過するので道路をきれいにした。

相馬屋

相馬屋サンを知ったのは、何とか泊まる所をと、夕鉄バスへ電話し、教えてもらった。「春日町で釣りをしたい。夕張岳を見たい」と云ったら、「そういう方がある限り宿を続けたい」と云っていたが、経営者の門間センさん(富美子さんの母)が86才になり、体がこわいこわいというので、今は宿も閉館。大夕張にはいられるだけいるとのこと。

上流の道路工事も終わり、水がきれいになってよく釣れる。ガツーンとくるあの引き。『野生のうぐい』手ごたえ充分、胸が高鳴る25㎝ぐらいの大物も。

お花畑

本当にきれいだった。あたり一面がお花畑。秋はブタ草(セイタカアワダチ草)が勢いよく一面黄色となりきれいだが、他の花がかわいそう。

サイレン

定刻に鳴る。聞くとずーと昔が思い出される。

7時14分のバス

この通学バスでみんなの一日が始まった高校生の数、25名ほど。今回いただいた鹿島中学校卒業生数の資料と符号する。

炭坑(ヤマ)の人は永住する気はないので石碑は建てない。墓は自分の故郷へ。私の父は昭和33年春日町で他界。灰は大夕張に、遺骨は父のふるさと栃木に。

竹の子、子どものとき運動会の最高のごちそう。人口の少ない今は蕗もたくさん残っている。アイヌネギ、グスベリ、コクワ、ムキダケ、関東にないものが思い出される。

じゃが芋

本州のものより美味しいものがある。カボチャ、豆、スイカは特に美味しい。

会計日

子どものとき、文具を買ってもらうにも14日まで待ったもの。商店は景気づけに売り出しをやる。生協までやるとは。そして駐車の列とは。

池田屋

池田屋で思い出す。割りばしに付いたアイスキャンデー。飯盒(はんごう)をもって家族の人数分買い、春日町へ帰るのに溶けるので急いで帰った。

夕張岳を見たい

本屋で山の本を探しても、あの大夕張神社から見る美しい夕張岳を写したものは見つからない。相馬屋サンに「見たい」といったら、朝に夕にどころではなく、ちょくちょく山の方を、見えないのは自分たちのせいだぐらいに思い込んでくれる優しい人達だ。

三回目に行った時、見えました。雄大な美しい夕張岳。胸にジーンときて涙腺がゆるむ。

鹿島東小学校

今も門柱と表札ほどの大きさの看板が残る。

鹿島橋

鹿島橋は変わっていない。橋の袂に、立て看板。”熊注意”とある。人口の少なさを物語る。忘れたころ車が通る。”きのこ狩”に行くらしい。

幾春別、三笠に抜ける道、工事も終わり、今年はレンタカーで抜けてみた。シューパロ川沿いに道は進み、やがて川は右に折れるが、道は直進。考えていたより道は急ではない。三夕トンネルを抜けると、川は今までとは逆に向こうに流れる。いくつもいくつも谷があり、橋が沢山かかり、難工事の様子がわかる。大きな湖、桂沢湖沿いに進み、幌向川から三笠へ景色の良い道路になってる。

相馬屋の門間センさん、今回も雑巾を縫ってくれた。「あなたは掃除がけが好きだと云うから」と毎回縫ってくれる。あの日(同期会)定山渓から電話しました。「明日、みんなで大夕張にいくことになりました」と伝えた。それから縫ったのだと思う。

皆さんが中学校跡へ行った時、相馬屋サンで降ろしてもらい少しの時間話し込みます。部屋を暖かくして待っててくれた。皆さんの車が戻って来て別れになります。将棋盤の様にきれいに正確に木綿糸が刺してある手縫いの雑巾。富美子さんがそばで微笑む。まるで恋人からハンカチーフをもらう様。涙を拭くのに使います。ありがとう。門間センさんいつまでも元気で。

昭和61年夏休みを1週間会社からもらい、永年念願の北海道大夕張行。始めて乗る飛行機、いざ乗ってみると早くて快適(昔は大夕張-東京間、汽車で30時間うんざりです)自分には兄弟8人いる。大夕張見てきたぞと、いちいち説明も時間がかかる。話はついついオーバーになる。ならばリポートしてみんなに配る方法が良いと考え、メモしてきたのを基に書いた。

地図は清水沢の本屋で探したがないので、自分なりに作った。明石町、常盤町が絵がかけない。学校の校庭に海抜?メートルメモをするのを忘れてる。

つり橋跡コンクリートは二基でよかったろうか。この他書き残していることがある様、また行ける日が楽しみだ。


大夕張は遠い昔について 【飯田雅人】

1998年夏、「ふるさと大夕張」で交流のあった乗田功一さんと新緑の映える大夕張で待ち合わせて会いました。

初対面にかかわらず、どこか懐かしく楽しい思い出となりました。その後、乗田さんから大夕張の資料を送っていただいたのですが、その中に橋本さんのレポート用紙4枚に及ぶ「大夕張は遠い昔」が一緒に入っていました。

同期会の時にみなさんに配られたものだということですが、橋本さんのお父さんのお墓参りの様子や、相馬屋さんとの交流をまじえながら、詳細に昭和61年当時の大夕張の様子を伝えています。

いつか「ふるさと大夕張」の皆さんにも読んでもらおうと思いながら、20年以上たってしまいました。大夕張の記憶の欠片を残らず集める思いで「2丁目3番地」に掲載させていただきます。  


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