鹿島小学校グラウンドのはなし

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 鹿島小学校のグラウンドは、とても広く感じた。実際、大人になってから大夕張を訪ねた時には、必ずグラウンドに足を運んだが、私が知る札幌のどの小学校のグラウンドよりずっと広かった。

 『ふるさと大夕張』への書き込みの中にも、かつて社会人野球などの試合もおこなわれたという記述があった。

 鹿島小学校低学年頃は、休み時間ともなると、その広いグラウンド片隅の砂場で、棒倒し(山崩し)を熱心にやっていた記憶がある。

 砂でできるだけ大きな山をつくって、てっぺんに木の枝を刺し、順番に両手で砂をとっていって最期に棒をたおした方が負けと、いう遊びです。

 どちらかというと、小さい頃から、体を動かす遊びより、女の子とママゴトとか、そういう遊びをしていたことの方が多かった。

 

 砂場は、グラウンドの北東の角、駅のホームに面していた。

 

 駅のホームからは、『蛍の光』が、時々流れて聞こえてきた。町のけっこう広範囲にわたって聞こえていたと思う。学校で習うより先に、『蛍の光』は「駅でかかっている曲」として馴染んでいた。

 

 今思えば、大夕張を去って行く人達が、大勢の人達に見送られて出て行く、悲しく寂しい別れのセレモニーだったのだろうけれど、その頃の自分は、「蛍の光がかかっていることの意味」は、よく理解していない子どもだった。  

  

 ところで、『大夕張の年表』の昭和46年12月の項に、「鹿島小学校グラウンド、学校専用として所管替えになる(大夕張鉱業所所管分)」という記事がある。

 元記事は、鹿島小学校閉校記念誌だったと思う。

 もともと、鹿島小学校のグラウンドは、開校当初から、大夕張礦業所が所有し、管理していたという話はかなり前に聞いたことがあった。

 

 そもそも鹿島小学校の校地は、礦業所が国から土地を借り受け、そこに、礦業所がお金を出して、校舎を建設し、夕張町に移管したということだった。鹿島小の沿革史にも「三菱礦業所の工事にて礦業所に多大の負担をかけて竣工せり」とある。

 

 当然、グラウンドも礦業所が土地を開き、整地したものだったろう。

 

 

 子どもであった私たちは、そこを『鹿島小学校のグラウンド』と呼んでいたが、礦業所側の大人達にとっては、そこは、『富士見が丘グラウンド』という名があった。

 

  

 正木英造先生が、こんなことを同じ「鹿島小学校閉校記念」(平成9年)に書いていた。

 

   

 

 【窓ガラスの破損】

 赴任当時、男子教員には、輪番制で宿直があり、日直と引き継ぎをして校内巡視、

 就寝前に再度巡視。

 翌朝起床後再度巡視。

 グラウンド側の廊下のガラスが複数破損しており、後片付けをして、日誌に記入、帰宅。

 

 勤務時に、長谷川安造教頭に報告。

 

 教頭曰く。

 「このグラウンドは、礦業所の所有物で、午後三時以降になると、百有余の野球チームの対抗試合が催される。それで、秋の終りごろには、礦業所で破損したガラスを入れてくれるので、心配ないよ」

 

 と話された。

 

 何々大会等になると、グラウンドの四すみで四試合が行なわれ、見物応援等する人たちは、とまどうほどであった。

 

 この話を読んでなるほどと思ったが、学校を預かる教頭としては、そのままにしておく訳にはいかないだろう。礦業所が秋にガラスをいれてくれるまで、破れた窓に板を張り付けたのか、ツケでガラスをすぐに入れてもらっていたのか、いずれにしろ手立てを講じなければいけなかったんだろうなとは思う。

 

 

備忘録

 

 

 

 

  

 

 

 

 

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